東海自然歩道気-酔いどれ天使のまま旅

東海自然歩道-酔いどれ天使の気まま旅

2016年4月2日から5月3日まで:栗島から高尾山ゴール。

2016年春
  待ちに待った機会がやってきた。派遣先ゼネコンの現場配属替えにともない2週間の休暇をいただくことになったのだ。慎重に準備を整える。まず、ザックをこれまでの古く扱いにくい容量70リットルの大型(ミレー「イェルパハー」)から、中型(60リットル同じくミレー「UBIC」)を新たに購入し備えたこと、雨具を従来の薄手のポンチョから前開きポンチョにこれも新たに購入したこと、レインハットはゴアテックス製のものを購入したこと、寝袋をグレードアップして軽量な物にしたこと、などなど。なにより苦慮したのは担架重量を減らすため持参食料を減らすことだったが、アルファ米は予備に一袋とし、主食はそば粉にし、湯で練って蕎麦掻を食することにした、乾パン半袋は、行動食兼朝食兼非常食とした。酒の肴としては辛子味噌のみとし、あと行動食のバリエーションとして、ミニバウムクーヘン、干し葡萄、チーズを加えた。酒は原則持参しないことにし、0.1リットルの小さなヨーグルト容器に入れたウィスキーだけを持っていき、好きな日本酒は行く先々で求めることとした。テントはフライなし、カメラは持参せずスマートフォンで間に合わす。ただ、旅途中での電池切れ対策として、大容量リチウム充電池を用意する。それでも、ザック重量は15キロをわずか上回った。あと、水などを加えると16キロを超える。若いころ、30キロ以上を担いで北アルプスの冬山を登っていたことが嘘のようだ。

2016年 4月2日
  満を持して、いざ出発。今回は東京高尾山までの最終ゴールを決めるまで、めげず歩きぬけるつもりだった。
 9:03 新大阪発。
 静岡から12時頃の静鉄バスに乗り、一路3年前の栗島へ。
 13:10 栗島着復帰。見覚えのある山村風景であった。3年前が今になったように、まったく変わっていなかった。準備体操をして、いざ出発。橋を渡り北の山へと伸びる林道を辿る。林道登り路の途中に「リゾートホテル鈴桃」の建物に着く。昼間に観るホテルは見映えがしない。道はホテルの倉庫・ガレージのような中を通り抜けていく。作業服の従業員が居た。軽く挨拶をして過ぎる。道はそこから山の樹林の中へ入っていき、地肌の山道になった。
 15:00 油山峠。なるほど、先人の記録にあるように、道は荒れていた。油山温泉には2軒の大きな旅館があったが、山奥の格式ばった高級料亭のような風格は、3年前の宿泊拒絶にあったのもむべなるかなと思わせた。山を下りると住宅地の筋に入った。まっすぐ東へ進んでいくと、大河、安倍川の堤に行き当たる。その交差点にスーパーがあるはずだった。しかし、ミニスーパーの残滓らしい朽ちかけた家屋があるのみ。あたりは堤防とその下に連なる家屋が見渡せるだけだ。日本酒は今夜おあずけとなった。安倍川にかかる曙橋を渡る。広い河原だった。渡り終えた橋の袂に河原への下り路があった。広い河原は公園模様の芝に整地され、テントサイトにとも考えたが時刻がまだ早すぎる。水辺におりて水を汲んだ。犬を連れた人などの散歩する姿がちらほら見える。のどかな風景だった。この先どこで泊まろうかと思案する。初日からして、迷いが生じている。
  西行の「鈴鹿山 うき世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらん」 の歌がまたもや口端にのぼる。   
10:00 安倍川 牛妻   

akebonobasi 曙橋                    


 国道を渡り、福寿院の傍から上へとたどる。茶畑の間の急坂となる。上るにつれ、安倍川の全容が眼下に広がってくる。茶畑が尽きると林道になり、登っていくと立派な別荘が3棟距離をおいて現れる。無人らしい。林道を上がり切ると道はなくなった。山影にトレースらしい踏み跡も見えるが、雑草に覆われていてどうもコースではないらしい。しばし、途方に暮れる。行き過ぎたらしい。戻ると見えにくい標識が途中の道脇にあり、階段を上がるとまた茶畑の細い道となって上りは続いた。それから深い樹林帯の山道になった。
 17:00 何もない樹林の根元で野営をする。テントを張らず、地べたに寝た。蕎麦掻を食す。

4月3日
  5:30起床。かすかに霧雨が降りだした。
  6:30 出発
 深い大きな山である。急登の山腹を上がり切ると尾根道になったが、大小のピークが次々眼前にあらわれ、登り切ると一息つけるがまた新たなピークが聳えているといった、果てしない繰りかえしが続く。
 10:20 竜爪山(文殊岳)頂上(1041m)。最後は木の階段を登りつめて、間違いなくそれと分かる頂上広場に着いた。中年登山者の一人を見かけたが、「こんな雨の日にしかも平日に出会うなんて奇特なことで!」とか互いに呼び交わす。彼は牛妻の方へ下っていった。この頃になると、雨は本降りになっていた。
 

monzyudake  文殊岳頂上


 雨は眺望のすべてを白い幕で包み隠してしまい、富士山も安倍川の景観も幻になった。
 そこからいったん急な下りを進み再び登ると、双子山の竜爪山(薬師岳)1051mに着いた。これで、関東への入り口関門をくぐった、という気のする登山であった。「ナンガパルパッド」のジルバーザッテルならぬ文殊岳のヴァイス・ザッテルだった。
 下りは滑りやすく気の抜けない急勾配が続く。緩くなって道幅がやや広くなる頃には、他の登山者とも幾人かと出会う。誰もかれも対面から来る登山者であった。林道のような様子になると、雨幕の中に大きな穂積神社の影があらわれた。神官の常駐しているのかと思わせるたたずまいであるが、社には人の気配がなかった。山中にしては異様なほど規模が大きい。或いは雨のせいでそのように印象づけられたかも知れぬ。なんでも戦国時代、武田氏の縁ある社だとか、さかのぼれば日本武尊にたどり着くらしい、武運長久・弾除けの神様として崇められている。南東の高山という町から道路が伸びており、この先の西里まで続いているらしい。そのためか、車で容易に寄り付ける山奥神社である。
 11:30 穂積神社
 最初登山者の2組が見えていたが、社殿際の自然歩道案内看板を見ていて振り返ると、忽然と20人ほどの男女混成パーティーが色とりどりのレインパーカーに身を包んで立っているのであった。学生のような若い人たちであった。雨の中から突然湧いて出たような変化なので目を疑ったが、おそらく道路を途中まで車でやってきたのだろうと、努めて自分を納得させる。神社は、休憩するには格好の目標ポイントである。
 山道の急な下りを北へたどる。沢通しの山道はいつしか林道になった。里へよほど近くなると、渓流筋に黒川のキャンプ場の見えたが、先を急ぐので通り過ぎる。橋の下にこちらを見上げる暇そうなキャンプ場管理人らしき男の姿があった。
 山を下りると、ちょうど雨も小止みになり、険阻な山風景とは対照に、明るいまるで桃源郷のような里がひろがった。野鳥の鳴き声がにぎわしくなる。西里の盆地だった。ここには温泉もある。
 14:10 西里。折しも雨があがり薄日が差したので、谷あいの風景をいっそう明るくさせ、道端の緑や家々が親し気に微笑んでくるように思われた。地元産の野菜・食べ物・土産物などを売っている茶店のような一画が、道から奥まったところにあった。店に入るとなんでも商っているようで、ワンカップ2本を求めた。店のおばさんは愛想が良く、宿を尋ねてみると真剣に応じてくれた。心当たりの旅館の連絡先を、電話帳を出してきて調べてくれる。その間に次々他の客が、鍋に煮えている蒟蒻を容器にとるとか、土産物を物色し買ったりするのだった。教えられた番号に連絡してみるが電波が弱くてなかなか通じない。外に出、離れたところから再度電話を入れると、やっと通じる。電話の声は女性であったが声の調子から親切な心根が伝わってくる。山登りの旅をしている者ですとこちらの宿泊申し込みに対し、上司に聞くと言ってしばらく待たされたが、すぐに了解の返事がきた。店のおばさんが結果を聞いて顔をほころばす。山歩きの旅人に、理解を示してくれているのが真摯に伝わってくる。外の縁台でパッキングをし直していると、胡桃餅のひと包みを手渡してくるので代金を払おうとするも、プレゼントと言う。火に炙るとやわらかくなってとてもおいしいものだと、すすめるのだ。感謝、感謝で言葉もなかった。旅先の身の上で、どのように礼をすればよいのか、そこを去って歩きながらも戸惑った。農家を茶店風に改装した店は、「ふるさと笑味の店」という名前だった。再訪したいと思う。道に沿って、田舎風のコーヒー店やコテージのような洒落た民家が続き、やすらぎの森という公園があらわれ、やませみ温泉もあらわれる。この温泉は日帰り専門だった。道は興津川沿いに通る幹線道路と直交する。左に折れて北へ向かう。川沿いにひろがる豊かな町だ。沿道にいくつかの食堂も見かけた。小さな郵便局を過ぎると、元沢という地点に予約した「八幡温泉」という宿の建物があらわれた。
 15:20 八幡温泉に着いた。旅館というより、中学校の校舎のような建物なので、少々いぶかった。校舎中央の玄関ロビーにおずおず入ってみたが誰もいない、声をかけてもなんの応えも返ってこない。しばらく突っ立っていると、話声が奥から聞こえたので、再度おとないを乞う。返事があって中年女性があらわれ、自分の訪れを知らされていたらしくすぐ部屋へ通された。20帖ほどの大広間である。こんな広い部屋を一人で使ってよいのですか?と尋ねると、ちょうど1チームの合宿が今朝終わったので自由に泊まってもらって結構ですと言う。学校を改装した宿なので、すべて教室の広さなのだった。部屋には座敷机があり、窓台カウンターには20インチほどのTVもあった。濡れた衣類を脱いで着かえ、茶を飲み壁に寄りかかって居眠りをし、窓外の景色をスケッチするなどして時間を過ごす。夕方、大きな風呂に入って浴衣に着かえる。想いおこしてみれば、東海自然歩道の旅においてこうして本格の宿泊施設に泊まったのは初めてであった。贅沢であった。奢りの中に一分の罪障が芽をもたげる。
 「少し早いんだけど、夕食をお持ちしましょうか?」と廊下の障子を開けて声がかかる。6:00になったばかりだった。三十代後半という年恰好のお姉さんが部屋に顔を出す。お願いすると、夕食の料理が運ばれてきた。おかずが多くて面食らう。多い目のマグロの刺身、わかめときゅうりの酢の物、野菜サラダ、多すぎる筍の煮物、豚肉と玉ねぎの醤油焼き、山菜のお浸し、卵焼き、冷ややっこ、みそ汁、漬物といった取り揃え。ご飯のお代わりはご自由ですからおっしゃってくださいとくる。それでなくても飯の盛りは多いのだ。スポーツ青少年の食べ盛りを想定している量だった。食堂に集まって子供たちと一緒に摂るのだと思っていたので以外だった。良いのですか?と問うと、子供たちが騒がしいから、ここでゆっくりめしあがってください、と言う。おおらかで明るい陽性なおねえさんだ。顔立ちも10人並みといったところ。
 小学生たちは、少年サッカーの選手だと言う。廊下にあふれてふざけあう子供たちはそれぞれに個性があるようで、それなりに序列ができあがっているように見えた。しかしみんな礼儀正しく、見ず知らずの自分のような年配者に丁寧なあいさつをするので、かえって恐縮した。
 食後はTVの全日本水泳選手権を観て楽しむ。ちょうど池江という大柄な女子中学生が100mバタフライ決勝で優勝したのだった。9:00就寝

 

 4月4日 平然と、朝の雨が降っていた。しっかりとためらいも見せず、降っていた。
 5:30起床。朝食を運んできたのは、またくだんのおねえさんだった。「こんな雨でも行くのですか?もう一日滞在してはどうかと社長が言っているのよ、どうします?」と、おねえさん。「はあ」と自分は気のない返事をする。旅の日数が限られているし、先へ足を伸ばしたいと気が逸っているのだ。雨とはいえ、一日無為に過ごすことに退屈を感じてしまうだろう。「雨もまた天気のひとつだから、行くことにします」と、ちいさく答えるのだった。
 7:00 八幡温泉出発。この宿の社長という初老の男性が玄関にあらわれて見送ってくれた。山登りはどちらまで?と通り一遍の質問を受ける。「またいつでも来てください、お待ちしていますよ」と言って、おにぎりの包みを手渡される。スポーツとかの運動をする風潮が好きな方だと知れる。静岡市清水区河内415番地の2「八幡センター」というところだった。意気に感じる宿だった。
 外に出ると、沛然と雨が降っている。水たまりに落ちた雨粒が元気に跳ね返って踊っている。新しいポンチョは丈が少し短いが、トレッキングパンツが撥水仕立てなので意外と苦にならない。興津川に沿って自動車道を北へ進む。町並みが疎らになると、上がり坂の勾配が立ってくる。商店の類は一切が姿を消し、民家の集まりが時折あらわれるが雨に沈んで形をひそめていた。「大平青少年の家」という施設が、急坂道の手前にあった。広場をはさんで公民館のような平屋の建物と炊事用の小屋が配されている。行事の時以外普段は閉じられているような様子だった。建物庇下に雨を避けて休む。あたりを見まわしても、ひとはあらわれなかった。
 前方に山が迫まり両脇の山肌が近寄ってくる。車の行き来はもとより、人姿も掻き消えた。川原にカーゴ石という大きな岩塊があった。ちょっとした名物らしい。家屋の三棟も収まりそうな容積である。こんな大岩が出水の折に流されてきたのだろう、自然の驚異を目の当たりに見る。
 雨は小降りになってきた。本日はこの先田代峠を越えることが、核心の足仕事となる。地図を見ると、山中をまっすぐ北へと延びる山道の分水嶺に位置する。西側に青葉山(1558m)という高い山がある。
 人境からはずれた山路脇に廃屋があらわれる。軒庇が張り出しテラスになっていたので、下に入り休んだ。塗料を製造していたらしい工場のようだ。行動食を口にする。上がりかけてきた雨は、霧雨になった。
 10:00.歩き出すと、切れた雲から陽が射した。樹々や道の小石が、うれし気にはしゃぐようだった。梢のあちこちに、青、黄、ピンクに染まる小粒の真珠がきらめき、明るくなった空に協賛していた。
 狭まった細い道を上がっていくと、自然歩道の標識が脇へ逸れるように案内している。沢沿いの山道に入った。曲がりくねり、水の流れを縫う歩きにくい道だった。林道を進んでも峠に通じているようだったが、自然歩道案内に従う。暗いじめついた木立の中を連れまわされるような思いをしながら歩んでいくと、いつしか空も再び曇っているのだった。渓谷の高巻をしたり、渕をへつったりと、足場の悪い道は遠かった。時折現れる道標に田代峠までの残り距離が表示されているが、進めどいっこうに距離数の減らないような気がする。簡単には峠の上に立たせてくれないようだ。木立を透かして上方に見える尾根に林道がとおっているようだったが、いまさら復帰などとうてい無理だったし、強引に上がるなどすればかえって多大の労力を費やされるだろう。最後は沢の源頭へでる急坂を登る。
 12:45 田代峠(1035m)ひと苦労をした。鞍部の地形なので水が集まるのだろう、足元のじめついた荒れた峠であった。八幡センター宿でいただいたおにぎり弁当を食す。米の飯はありがたかった。ここから山梨県にはいった。

tashirotooge 田代峠    

  
  峠から荒れた下り道をたどっていくと
14:40 奥山温泉に着いた。日帰り温泉である(泊まりもできるようになったと、後で知った)。真新しい瀟洒な建物と駐車場という遊山施設には、山歩き旅びとを疎外するような(僻みかな)気配があり、場違いな感はぬぐえない。この先の徳間という里には民宿が少なからずあると知っていたので、予約の電話を入れる。一軒目は、民宿は廃業したと言い、二軒目は一人客と聞いてから断られた。気分を害し、もう電話をする気になれなかった。もう一軒あるはずだったが、電話番号は不明であった。
 奥山温泉からは東向きの舗装路になった。谷道に立派な規模の観光ホテルがあってたくさんの観光バスが駐車していた。場違いである。谷は福士川渓谷と謂う風光明媚な観光道であった。川魚の釣り場もあった。
 16:30 徳間の里、上村に着く。川の合流する山あいの里である。廃業した民宿を過ぎ、バス停のある交差点に出た。川筋に適当な幕営地はないかと物色するが、屋並に挟まれ俗気が満ちてどうにも落ち着ける場所がない。通りかかった地元の老婆にたずねてみると、民宿はこの里にはないだろうとのこと、唯一ある橋本屋は、今は建築工事作業員の宿舎になっていると言う。仕方がないので上徳間峠への道を進んでいくと、橋本屋の看板を揚げた民家が道沿いにあったので、一人ぐらい泊まれないかと玄関からおとないを乞うてみるが、まったく応答はなかった。洗い場の蛇口から水を汲んで、先へ進む。上徳間の村で、畑仕事をしている老婆にも尋ねてみるが、泊まるところなどこのあたりにはありはせん、とやはりにべもない返事だった。全体に、人情味の薄い地だとの印象がわだかまった。急坂の林道途中の、水源取り込みポンプ施設入り口付近の空き地に、幕営した。人目につかない奥まった場所であった。日はどっぷり落ちて、闇がしのびよっていた。夕飯に蕎麦掻を食す。

    

4月5日
  5:15起床
 6:30 テント撤収・出発
 里と里との間の小さな峠だと多寡をくくって進んでみたら、行けども行けども深い山が連なり、登りつめてやっと峠を越えたと一息つく間もなく下っていくとまた上りになり、行けども行けども山腹の林道を縫っていくのだった。はっきりした峠の標識もないまま下りをすすんでいくと、林道の補修作業をしている土木作業員3人に出会った。朝の挨拶をして道を尋ねてみる。鯨野へはこの道を下りていけばよいと、3人が口々に言う。東海自然歩道の道標はなかったが安心して進む。
  9:30 鯨野。富士川ほとりの福士という大きな町へ至る、山間の里である。家屋がにわかに増え、沿道の処々に散在しだす。東海自然歩道は六地蔵という名所の公園を経て丘をめぐる道に設定されているが、一時離脱し、食料補給と町の雰囲気を肌に覚えるため、川に沿う南寄りの道をたどる。大きく蛇行する川筋に沿って道も湾曲していき、車の頻繁に行きかう幹線道路に行き当たり右へ折れて橋を渡ると、国道52号線に合流した。国道の土手上にこじんまりとした「ヤマザキデイリー」のコンビニ店があった。日持ちのよさそうなパンと日本酒ワンカップと、当座の昼食の糧としてカップラーメンを求める。店の外でザックの上に座り込みラーメンを食した。そしておおきな富士川の風景を眺め、ひとり旅情を味わう。川に沿って人々の生活があり風景を成形しているのだと無言に話しかけてくるが、旅をしている自分がとてもちいさな形に思えてくるものだ。
 国道を離れ元の街並みに戻って冨栄橋の方へ歩いていくと、商店の間にミニスーパーがあった。国道沿いには道の駅もあるらしい。11:00再び国道に合流し、冨栄橋を渡る。川幅はひろく、橋上から眺めると、下流にひろがる河原の空間が空と一つにつながっているようだった。平維盛の軍勢が水鳥の音に驚き合戦もせぬ前に逃げ帰ったという平家物語の逸話を思い出す。橋を渡って右へ川に沿って南寄りに進む。車道は急な上り勾配が続いた。  
11:30 身延線の無人駅「井出」に着いた。

ideeki 井出駅   

  川沿いの丘の上にある。駅横の駐車場のような広場に大休止をとる。今夜の泊りをどこでするかと思案をするが、これといって目標が定まらない。適当なテントサイトなり休憩所があればと、あいまいに考える。思親山への道標があり、道ははっきりしている。広場の傍らに小さな民家があり、玄関に思親山案内所とあるので訪ってみた。奥の方で老女が昼食を摂っているところだったが、気軽に応対をしてくれた。篤志家の老女が私的にボランティアでやっているような雰囲気であった。道案内パンフをいただく。ここから源立寺まで40分、そこからはまあ2時間か2時間半もあれば頂上に着けると、おおらかに言う。外向的で話好きな老女だった。好感を持てた分、疲れた体に元気が湧き、頂上まで登りぬこうと決める。
 ひとしきり急な舗装路を上り切ると、前方にちょっとした盆地がひろがる。里村である。こんもりした丘木立に寺があった。長い石段を登ると境内に着いた。源立寺である。庫裏を訪れ、声をかけると、50歳前後の大黒が不審げな面であらわれる。水を汲ませてくれとたのむ。不審が解けて愛想良く了解してくれた。横手に洗い場があったので、2リットル入りポリタンに六分ほど入れた。寺の横手の急な坂道を北方向へを登っていく。山桜が咲いていた。遠近の農家の散在する丘陵の、勾配の急な坂道を上った。尾根の起伏をしばらく進み、ほどなく自然歩道標の案内に従って山道に分け入る。林道と平行しているらしい山道はこのあと2回林道と合流し、最後に離れると急な山腹を上る道になった。途切れることなく続き、休みどころも得られなかった。残り所要タイムでなく残り距離で表す自然歩道標が、要所ゝにあらわれるので道の不安はなかった。上方の、峰向こうの空のひろがりに尾根の在りかを測ってみるが、登るごとに山腹が新たに遮った。あたりの樹林に霧がたちこめた。尾根筋に上がると、歩きはすこし楽になった。井出の駅を発ってから、すでに4時間経過していた。案内所老女の言うコースタイムをおおはばに越えていた。風が出て、衣服に霧をたたきつける。
  17:30 思親山頂上(1031m)。霧があたりを流れ眺望を描き消していた。5時間以上が経過していた。どこかで時間を失くしたらしい。ひろくまるい丘のような頂上だった。テーブル・ベンチが2対あった。幕営地に決める。

4月6日
  5:10起床。テントの外がほの白く、なんとなくひとの気配がする。まだ夜明け前のことなので、いぶかしかった。

   テントを開けて首を突き出すと、目の前いっぱいに、夜明け前の黎明を背景にした青い富士山がもの言いたげに佇立していた。この迫力は、てらいなくわたしを感動させた。10年前東海自然歩道を歩き始めてからこの方、常に胸の奥底に在った憧憬が実際に現実となった。たかが富士山、されど富士山である。日の出:5:13     sisinyama  

 富士山の日の出(思親山から)

 三脚のカメラの傍に人懐っこそうな髭をたくわえたおじさんが、こちらに微笑みかける。朝の挨拶を交わし、なにやらうれしくてなんのかんのと話をする。定年退職してのち、こうして山や野鳥の写真を撮るのが趣味であちこちの山に来るのだとか、初対面の風貌では歳長けて見えたが実際は自分より8歳ばかり年下の年齢であった。私のことを若いと言ったが、正対称鏡面のように逆転しているのだった。彼は日の出の写真を撮り終えると、車を置いてある佐野峠の方へ下りて行った。さて、気持ちの良い朝、テーブルで、ドリップコーヒーと菓子パンとチーズで優雅な食事を摂り、テント撤収・パッキングをしていると下から20代見当の若者が息をあえがせ登ってくる。朝の挨拶をおくるが、興ざめた顔からは応えがない。もうひとつのテーブル・ベンチにザックを下ろし、不興げにあたりを見まわしていた。朝一番の登頂を目指してきたのだろうか、そしてすでに先着の他人が居ることに、不快の念を禁じえなかったのか?
 8:00早々に下山する。
 8:25山道を下りきると、佐野峠であった。そこでは林道の工事をするバックホーというパワーシャベルが騒音を響かせて稼働していた。佐野峠じたいは整った駐車場と公衆トイレを備えている最前線の観光拠点である。これから向かおうとする佐野集落は、工事をしている林道に当たる。重機に近寄る。伐採した膨大な量の樹木をバックホーのバケットでかき集め、ダンプカーに載せる作業をしていた。作業間隙をとらえてオペレーターの若者に問いかける。東海自然歩道の行方は?申し訳ないですが通れません、通行止めです。代わりに、駐車場裏の林道を伝ってもらい、ピンクの目印リボンに沿って沢道を進んでいかれると、佐野集落手前で東海自然歩道に合流します。すみません、ご迷惑をおかけします、と初々しい誠意のあふれる丁寧な説明であった。いつも思う、末端作業員の真摯な態度に、いまさらながら目を開く思いだった。オペレーターの説明に従い林道を進み、ピンク色リボンの山腹の急斜面をおり、谷筋の獣道のような荒れたトレースをたどる。
 10:30 佐野集落。山腹から茶畑の道を縫うように下りると、村を貫く村道に下りた。このあたりには確かに2・3人の人姿は見えた。進むと、公民館のような平屋の建物が目につく。宗教施設らしく観えたので、気に留めず行き過ぎたが、実はそこが目指す自炊宿であったのだ。しかし、ひと気のまったくない施設であるから、その時点では確かめる術はなかったといえる。他にも民宿が一軒あるはずだった。ひと気のない村道を進むと、一軒の民家玄関前で草ぬきをしている初老の男性が居たので、尋ねてみた。スマフォのネット天気予報では明日は荒れ模様の天候らしく、今日明日この佐野集落でゆっくり滞在して足を休めようと思っていたのだ。男性は、沼津から引っ越してきたばかりで土地には不案内である、泊まるところなら清涼荘という自炊宿があると聞く、地区の会長さんに申し込めば良いそうだから、そこの食料品店にたずねてください、とのことである。10mほど行くと、硝子戸の民家があって、どうやら店らしいが、のぞくと商品の類は陳列していない。戸は閉まっている。庭先に洗濯ものが乾してあるので留守ではなさそうだ。何度も声をかけてみるが、物音ひとつもしない。あきらめて、地図をたよりに道を先へ進む。右手畑地の向こうに佐野川、西側は山が迫り、間に農家が点在している。めぼしい大きな家へ行き、玄関から声をかけてみるがまったく応答はない。横手の窓ガラスが割れていた。何軒か同じように訪ねてみるが、同様の結果に終わる。戸数20軒あまりある集落は、見たところ大半が無住らしかった。高台に構える大きな農家には車の駐車しているのが認められはしたものの、わずか4軒に過ぎない。なにがしてこの集落をかほどまで凋落させたのだろうか?
  佐野川の岸辺、林の中にテントサイトをととのえ、幕営をする。明日の雨予報とはうらはらに、空は晴れ日差しが強かった。河原に下りて、下着やシャツ・靴下を川の水で洗い、河原の石の上に並べて乾した。乾くまでの間、川の風景をスケッチして時間を過ごす。上流に小さな橋がある。その袂に山桜の咲く木の一叢がある。小さな谷川は、せせらぎの水を気持ちよく流してよこし、石をはむ水音が軽やかに河原に鳴っていた。橋の上流は樹木が折り重なっており、上からの流れを隠していた。その上方を見上げると、山腹が重なり、屏風のようにたちはだかっていた。
 日差しを浴びて心地よく、スケッチに飽きると知らず居眠りにおちいる。鳴き交わす野鳥たちが、わが寝入り様を見守っているようだった。    

sano          佐野川スケッチ

 空の青が白く濁りだし、日差しも陰り風がうら寂しく吹くようになった。肌がさみしくなったので、まだ生乾きであったが身につけた。橋の方へ行き、渡ると、右手に入る林道があり、そこが田貫湖へ抜けるための関門「長者ヶ岳」への登山口であった。

     

4月7日、悪天
 4:30 起床。早々に乾パンとチーズの朝食を済ませる。5:00頃、小雨が降りだす。空は灰色に重くたれこめていた。長者ヶ岳越えはあっさりあきらめ、停滞することにした。
 雨は、時間の経つにつれ如実に強く降ってきた。寝袋に半身を入れて寝転ぶと、気持ちよく眠りに落ちる。テントを打つ樹々のしずく音でうっすら目が覚める。うつらうつら半覚醒のまどろみが気持ち良い。なにも考えないで、ぼうっと無為に過ごすことのうれしさを味わう。まったくなんの意識ももよおさず、ただ目前の空間に溶け込み、時間の介在や存在さえ霧散させている状態に身を置く喜びに気づく。眼に映る事物・景色を意識という脚色を経ず直截受け入れる、在りのままなこの瞬間の貴重さは、日常では得難い。この旅の最大の収穫だと思った。
 11:00 早めの昼食を摂る。固形コンソメの素を溶かしてスープを作り、そこへ乾パンを6個とパターを溶かして、食した。溶けてふやけた乾パンが具になって、具合の良い食事になった。
 昼食後は、また眠る。よく退屈しないものだと、思う。
 13:00 風が強くなり、樹林の下とはいえ、雨飛沫が直接テントを打つようになった。フライシートはもとより持参していない。心配していた通り、ゴアテックス布地に雨がしみこみ、滴をしたたらせだす。観ているうちに、マット周りに水が溜まりだす。マットと寝袋とわが身だけが、水の上に浮かぶ島のようにさえなってくる。何か対策を講じなければ、とても明日までの夜を越せないと考えた。テントと荷物をそのままにして、ポンチョをつけて自炊宿のあった場所へ向かう。
 清涼荘という平屋の建物はやはり鍵が閉まっている。どうしたら連絡を取れるものかと、上の方へ歩いていき、マムシ酒を商っている商店が開いていたので中へ声をかける。ひとの好さそうな中年の男性があらわれたので事情を説明すると、こころよく意を汲みとってくれたようで、村役場の電話番号を教えていただく。その場で電話を入れると、あいにく担当の者がいないのでしばらく待ってください、戻り次第こちらから連絡しますとの女性の返事。未だ安堵はできないが、いちおう対策の目途はたったと思った。店内を見まわすと、とぐろを巻く蝮と焼酎の入ったガラス容器が並んでいる。日本酒がないかと尋ねると、酎ハイしか無いとのこと。ためらう。あとで買いに来てもよいかと言うと、土砂崩れの道路が復旧され次第他所の自宅へ帰るので長くは店を開けていないと言う。実はこのご主人、土砂崩れのために午前中からこの村に閉じ込められていたのだった。
 とりあえず、清涼荘玄関ポーチで電話を待つことにした。スマフォの電池残量が幾分気がかりだった。20分ほどしてスマフォが鳴る。もうすぐしたら担当者が返ってくるので今しばらく待ってくれ、とのこと。目立った進展はない。5分後また鳴る。もう少し待ってください、そちらへ向かう、と中年女性の声が言う。待つこと10分、一台の黒塗りSUV車が広い敷地を入ってきて玄関前に停まった。おばさんが降りてきた。鍵束を手にし、玄関を開けてくれる。お荷物は?と怪訝に問うので、上流畔の林の中にテントを張っている、すぐに撤収してこちらへ運ぶと答えると、じゃ車で一緒に行って運びましょうと、望外の親切な申し出。時間がかかりますからそれでは申し訳ないと辞退をするが、遠慮をなさらないでと引き下がらない。村役場のひとであり、また清涼荘の持ち主兼管理者のご内儀であった。やはり、集落の大半は無人であると言う、自分たちは茶畑があるのでやむなく生業を続けているが・・・とあとは言葉を濁される。なるほど車中には新鮮な茶の香りがこもっていた。自宅の用を済ませるからと、先に一緒におばさんの自宅へ寄り、それから私の道案内に副って川筋の幕営地へ行った。雨の中、大急ぎで荷物のパッキングをし、テントを撤収し、車のトランクに積み込む。おばさんにも小物類の積み込みを手伝ってもらって、たいへん恐縮する。
 清涼荘に落ち着くと、道路が復旧すれば主人が戻ってくるので、あらためて主人が来て宿泊等の手続きをする、と言いおいて、品のよいおばさんは自宅へと戻っていった。すぐに、中年の体格の良い男性があらわれる。やっと道路が復旧したと、第一声。ボイラーを沸かしてもらい、宿泊料金(1,540円)の支払いを済ませる。食料はありますか?と気遣ってくれるが、これ以上の厄介にはなれなかった。風呂に入ってゆっくり温まってください、と言って、男性は去る。30帖ばかりのカーペット敷き洋室と10帖の和室、ホール、厨房、男女別のトイレ、大浴室と、一人で使うには余りある立派な施設だった。テントを張り、玄関土間に乾す。大きな石油ファンヒーターの暖房は、すぐ効いた。衣類はすべて濡れているので壁の付け鴨居に吊るして乾した。大きな浴槽の湯につかり、TVを観てくつろぐ。なぜ昨日からここに泊まらなかったかと、一分の悔やみがあった。夕食は蕎麦掻だけであったが、厨房のコンロを使い、テーブル・椅子に腰かけて贅沢に味わう。冷蔵庫も食器類もすべて備わっていた。こうして御殿の夢のような一夜を過ごすことができるのも、ひとつには異郷のひとたちの惜しみない親切と、若干の運の良さだと思われた。多謝である。
 気がかりは日程のことだった。地図をにらみ、残りの行程を推し量ると、このままでは4月13日ころまでに高尾山にゴールすることは、よほど無理をしないことにはおぼつかなく思われた。やはり、今回は断念すべきだと考える。余裕を失くし、体力の限界まで使い果たしゴールすることは、スマートに旅をするのが信条の自分としては性分に合わないのだ。

  

4月8日 5:15起床。
 西の窓から外を眺めると、山桜の花弁が朝日に光っていた。近くに迫る山肌は潤いを帯び、名も知れぬ花の色を観る。「暁に紅の湿える処を看れば 花は錦官城に重からん」と、杜甫の「春夜喜雨」の詩が思わず浮かんでくるのだった。
  7:20 佐野清涼荘を出発。青空には、前日来の悪天の名残か、雲が多く残っていた。
 前日に下見をしておいた長者ヶ岳への登山口に着き、入念に足慣らしの準備体操を行う。緩い勾配の林道を進むと、沢をたどる山道になった。自然歩道標は完備されていて迷う心配はない。大きな栗鼠が現れて道案内をしてくれるように前を跳んでいった。しばらくは曲がりくねった沢道を登っていく。上へ登るにつれ登山道は荒れてくる。おおむね山腹の巻道であるが、ルンゼを渡る度崩れやすいがれ場のトラバースとなり、足運びに緊張を強いられる。登っても登ってもこの状況は変わらない。1086mの高みに上がると、ちょうどそこは天子ヶ岳へ突き上げる南西尾根と接する地点だった。自然歩道の標は、だが、また山腹を巻くトラバース状のがれた悪路を指し示しており、いい加減うんざりもしまた危険でもあるので、尾根に上がって偵察をしてみる。不明瞭ではあるがトレースの跡も認められ、登れないことはなさそうだった。思い切ってコースを変更する。尾根道はしかし、そうとうな急勾配であった。か細いトレースもいつしか消えたりするところをみると、どうやら獣道らしかった。足場の悪い急斜面で何度も足を止めて休む。立木や岩をつかんで登っていくうち、ザックバンドに吊り下げた地図ケースを知らぬ間に失くしてしまう。立木の枝にひもを引っ掛け、切れてしまったのだろう。仕方がない、急勾配の斜面を探しに戻るなど、論外だった。盲進みになるが、尾根の方向を信じてこのまま登り続けるしかなかった。上がるにつれ勾配がより立ってきて、ほとんど崖状になるところもあらわれる。より安全で効率よく登れるルートを必死に探す。やはり、この尾根道のルートは一般向きでないなと、妙に納得する。空の青空は掻き消え、白濁した雲が全天を覆っていた。行く先上方の尾根斜面に切れ目があらわれたようだった。樹木の向こうに空が見えるのだ。最後の急勾配を登りつめると鞍地にたどり着き、そして登山道に直交した。目論見が当たってほっとした。しかし、時間は相当に費消した。11:45だった。 上佐野の登り口から4時間が経過していた。標準コースタイムでは2時間半となっているので、ザックの重みがあるにせよたいそうなアルバイトをしたものだ。危なくても自然歩道コースを進んだ方が良かったのかと考えたりもするが、しかしルート整備さえしっかりすればたどってきた尾根道の方がより安全で紛れのないコースになるだろうと思われた。天子ヶ岳ピークへは近いし山続きなのですぐ行けそうだったが、ピークハンティングの旅でもなし、割愛して登山道を北へと進む。長者ヶ岳までは稜線伝いなので楽だろうと思っていたが、しかし距離もあり上り下りも結構あるなど1時間半ほどを要した。途中、天子ヶ岳へ向かう中年男性3人パーティーと出会う。一人の方が遅れていて、急な登り箇所で休んでいた。「午後から晴れると予報があったのに、当てがはずれちまったなあ」と、ぼやき顔で言う。「今日は一日こんな調子で晴れないようです」と、こちらが言う。「そうだな、天気予報なんて当てにならないもんだ」と、本格登山姿の中年男。ほかにも、男女4人パーティーとも出会う。人気のある山だった。
 13:20 長者ヶ岳頂上(1334m)。曇り空と霧のため、視界はまったく閉ざされていた。富士山や南アルプスの良く見える処なのに残念だった。中年男のぼやきが頷けた。頂上直下のベンチで昼食を摂り、さて下山に出発すると、入れ替わりに青年が降りてきてベンチに休む。突然あらわれたので、どこを登っていたのか見当がつきかねた。
 田貫湖への下山路は登り路とは打って変わって、よく整備されていた。途中、夫婦らしき中年男女を追い抜いて足早に下山する。
 14:40 田貫湖入口 失くした地図は6枚(二日分)、国土地理院2万5千分の1をダウンロードしてプリントしたA4版である。この先朝霧高原までの分だった。その先の地図はザックに収めていたので、大きな支障は無かった。ただ、自作地図ケースを失くしたので、クリアケースにパッチテープを貼るなどして急拵えの間に合わせをする。田貫湖周りをめぐる散策路に出会う地点であり、ちょうどお疲れさまのテーブル・ベンチがある。休んでいると、長者ヶ岳直下で見かけた青年も急ぎ足で降りてきた。私を一瞥すると、そのまま足を止めず、右へ、自動車道の方へ去っていった。
 森の中を瀟洒な別荘屋敷の時折現れる中を西へと歩むが、なだらかとはいえ大きな起伏があり視界が開けず、予想したイメージとは違うのでナーバスな気分に陥ってしまう。小田貫湿原という観光名所の沼地が道と平行して続く。季節はずれなのか湿原の植物は褪せており観光客はまばらであった。興味をひかず、横目にながめて通り過ぎる。自然歩道標に副って曲がりくねった道をたどっていくと、酪農を営む家々のはざまに入っていく。こじんまりした農家や倉庫のような大規模な酪農家屋もあらわれる。乳酸と牛の堆肥が混濁して溶け合ったなんともいえない異質の匂いが、道筋にこもっていた。慣れない匂いだった。このあたりは地図を失った行程なので、進みながらも現在位置の確かめようもないまま自然歩道標だけを恃みにするだけだったので、後日、歩んだ道筋を再現しようとしても、道が複雑に入り組んでいるためどうしても細微は不明のままだ。陣馬の滝という名所にも行き当たった。休憩所、きれいな公衆トイレ、案内看板があった。富士宮市の観光案内電話番号が載っていたのでかけてみるが、応対に出た女性は宿泊施設などには不明なようで、さんざん待たされた挙句通年営業をしている宿泊所はなく、今現在どこも閉じているとの返事が返ってくる。そんなはずはないだろうと思ったが、スマフォの電池残量が乏しいので、あきらめて切った。お役所の観光案内係というところのお粗末さ加減は以て件の如し。
 自然歩道とは離脱し、国道139号線と平行に走る幹線道路へと折れる。朝霧高原入口という地点に、「サークルK」があるとのスマフォから情報を得ていたので、そこで食料補給、とりわけ蕎麦がきではなく少し毛色の変わった夕食材と日本酒を買い求める目論見である。道はすこし幅員の広い村道といった舗装路だった。上がり坂が続く。
 日は陰り、夕暮れが迫ってくる。猪ノ頭の町を過ぎる。富士養鱒場というところには鱒料理専門の高級そうなレストランがあり、その奥庭は公共の公園(養鱒場)にもなっていた。鱒料理を食し、そのあたりの森影でテントを張ることも選択肢としてちらと脳裏をかすめるが、それにしても自分の薄汚れた旅の身なりでは歓迎されないだろうと思うので即座に考えを打ち消した。猪ノ頭中学校の前を通る。バス停の名になっているぐらい、有名であるらしい。3人の純朴そうな中学生が、あいさつをしながら行き過ぎる。やがて家並みは途切れ、うら寂しい、林の中の道になった。黄昏時、樹々の底が暗闇に沈みだす。時折車が通り、ヘッドライトの明かりを前方遠くに投げた。まっすぐ伸びた道のはるかな先に、黄色の明かりがどうやら見えた。少なくとも人跡のあることはまちがいなく予想できた。近づくにつれ、より確かに見えてくる。ネオンか店明かりのようだ。国道との合流点だった。
 17:10、めざす「サークルK」は、幅広い国道の反対側に在った。横の広い空き地には、大型の長距離トラックが幾台も停まっている。静岡県最後のコンビニ店です、と大きな看板に表示されているのが、目をひいた。地図はなくとも目当てのコンビニ店が見つけられて、内心うれしかった。
行動食のバウムクーヘンが少なくなっていたので、トーストパンと日本酒の4合瓶を買い、それに卵を六個買い、日本酒の瓶は邪魔で重いので詰め替え用にペットボトルの水も買い、さらにポケットティッシュを買い、そしてこの日の夕餉用に焼き肉弁当をとどめに買った。日本酒はその場でペットボトルに入れ替える。手間と時間を要した食料補給だった。購入した酒や食品をパッキングしていると、傍らで煙草を吸っているおねえさんが何気に観察しているのであった。珍しいのだろうか、ドライブ客が主なコンビニ店にむさいホームレスが闖入したのだから。
 用は済ませた、さて、東海自然歩道に復帰すべく、そこから西へ向かうそれらしい林の間の道を、テントサイトの用地を物色しながら歩んでいく。たまに、車の通る寂しい道だった。「日暮れて道遠し…」蕪村の句だったかな、そんな心境だった。道の両側は低い灌木林だったが、道より低まっており、どうも幕営地としては今一つ頷けない。小川を渡ると、河原が目についた。その横手にひろがる林を幕営地に決めた。残照の下で、手早くテントを張って中に落ち着いた。狭くとも我が御殿であった。思えば、佐野の清涼荘を発ってからこっち、夢中で歩きとおした一日だった。六個すべての卵を茹で、2個を食す。茹で方がまずかったのか、殻がうまく剥けなかった。買ったばかりの地酒を飲み、焼き肉弁当を食した。夜半、小用を足すため外へ出ると、あたりの地面一面が水に浸っていた。夜に水の湧きだす湿地帯らしい。今さら用地替えも面倒なので、そのままのテントで朝まで寝た。朝になると、水は引いていたが下草はぐっしょり濡れていた。卵を茹でるのに使ったので飲料水が残り少なく、歩いて20分ばかりの国道のコンビニ店へ行き、「おうい、お茶」と新聞と牛乳を買った。幕営地に戻る途中、誰かに上から見られているような気がしたので振り返ると、大きな富士山が国道の上から見おろしていた。スマフォで撮影しようとしたが、電池残量が切れてしまった。ゆで卵2個と牛乳と乾パンの朝食を摂る。雲間から射す弱い朝日に濡れたテントを乾かす間、新聞を読んだ。北アルプスで遭難が相次ぎ、死者も出たと知る。また、富士山では高校生が雪の中で動けなくなったらしい。経験に覚えがある、三千メートル級の山岳では、春山はすなわち冬山であると。

4月9日
 5:30起床
 7:45 テント撤収・出発。
 原野の間のまっすぐな道を西へ歩いていくと、遠近に牧舎があらわれてくる。T字路に行き当たると、東海自然歩道の標が立っていた。右へ折れて北へ進む。左は山地が迫り、間に火山石だらけの荒れた耕地がときおりあらわれ、右手は牧地とその向こうは原野だった。古い西部劇(たとえば「シェーン」)に出てきそうな風景だった。聞いたこともないような鋭い威嚇するような鳥の鳴き声が空を往きかっていた。あたりは無人だった。
原野のただ中の緩やかな起伏の道を歩む。前方に小粒の人の姿が見えてくる。差が縮まってくる。小柄な五十前後の男性であった。歩き方がぎこちなく、どうやら片足が不自由らしい。丘の上へ登りつめあたりの林を眺め、野鳥の声を聴いたりして休んだ。再び歩き出すと、見通しの良い前方に、男性の姿は見えなくなっていた。脇道へ逸れたのかと思ったが、それらしき道は無かった。何用かあって林の奥へ入り込んだのかと、想像した。
 小さな枯れ川の河原に出ると、吊橋が架かっていた。東海自然歩道の案内看板があった。「麓の吊り橋」とある。河原の向こうに大きな富士山が雲をまといつかせていた。朝日が横なぐりに照ってきたので、テントを乾した。こういうところで、無窮の時に身を委ねるのもまた旅の喜びであった。半時間ほど、この場所でまた新聞を読んで過ごした。
 吊り橋を渡り、枯れ河原の畔を西へしばらく行くと、右手に盆地が広がってきた。盆地のはるか向こうの丘から煙が幾筋も上がっている。山焼きだと、看板表示があった。標識には、盆地へ下りる道はたまに冠水するので遠慮しろ、このまま東海自然歩道の案内にしたがって山裾巻の道へ行け、という趣旨の文言が記されてあった。西の山の方へ上がり勾配に進んでいくと、広々した灌木林の中へ入っていき、上に富士山が雲をたなびかせているのが見え、気持ちの良い陽だまりがあったので休んでいるとカメラを構えた中年男が道をやってきた。テントを担いでの旅ですか?そうですよ。ぼくは高山植物の写真撮りが趣味でして、近くまで車で寄り付きハイキングを楽しんでおるのですが、しかし、テントを担いで旅をしておられる方にお目にかかるなんてめったにありません、いやむしろ初めてですよ。とまあ人の好さそうな未だあどけなさを残す中年男は、つくづく感心をしておられる。しばらくはつれづれ語らいながら同道する。これといった野草がなくて良い写真が撮れていない、と中年は言う。山へ上りなさいと、自分は言う。どこの山ですか?と中年が問う。近くの長者ヶ岳が良いと、自分は言う。高いですか?と中年。1300mぐらいかな、と自分が言うと、返事がない。中年はマイペースに道端に足を留め、小花に魅入っているのだった。道がかぎ折れに東方向へ曲がるところで、中年は曲がらずまっすぐ北の方へ行ってしまった。左手上の方に毛無山(1964m)の急峻な山容が見える。コースから外れているので、内心ほっとした。山裾に沿って、道はひろい林道から狭い山道になってくる。上り下りがきつくなってくる。山裾を下りると、右手の上に牧草地が広がりだす。遠くの丘の上に百頭ばかりの牛の草を食んでいるのが見えた。背景に屏風のように富士山が佇立している。距離が縮まると、牛たちの何頭かがこちらの姿を見つけたらしく、ひまつぶしなのか興味を引いたのか、しばらくはこちらの姿に視線を留めて放念していた。上空のそれほど高くない高度を、パラパントが飛んでいる。飛行姿を誇示するように、こちらの真上へ飛んでくる。遠くの空にも、一つ気持ちよさげに飛んでいるのが見えた。
 麓っぱらに着く。大規模なひろいオートキャンプ場が道のむこう見渡す限りにひろがる。宿泊施設の建物もある。他にも、レストランやロッジが道の両側に続く。酪農農家や果樹栽培農家が集まって村落を形成しているところが、森に囲まれていた。まちがえてまぎれこんでしまったのでまた時間をかけて元の分岐点へ戻る。
 遠くへ続く丘陵地の先に、パラパントの発着する丘が認められた。このあたり一帯は、日本の土地とは乖離した話に聞く想像上の異国もかくやあるかと想わせるスケールの大きな風景だった。初めて接する異質の空間であった。映画のロケ地になるのも頷ける。
 道は山裾に沿って西方向へと続く。子供の頃に見た映画、小林旭の「ギターをかかえた渡り鳥」のシーンがよみがえる。あたりの広い原野に、人姿は一点も見えなかった。鳥の声が時折空を鳴き渡るほかには、空気に音はまぎれこまなかった。かえって耳がおかしくなる。空は晴れたりくもったりした。山裾の地形に合わせて隆起をくりかえす。枯れ川にかかると桟道が続いた。平地に下りると、「根原の四阿」という瀟洒な休憩所に行き当たった。殺風景なあたりの原野の中に在って、その四阿の佇まいは場違いな気取りを漂わせていた。A沢貯水池という地が、大休止をとるための目標点であったが、隆起を繰り返す道のりは遠かった。林の中を下っていくと、枯れ川にかかる小さな吊り橋に着いた。「根原の吊橋」である。なぜこんなところに吊り橋が?と想わせる童話世界のかわいい絵柄だった。時として、この吊り橋の下を濁流が暴れ奔るのだろうか。

nehara         根原吊橋

    吊り橋を渡り、林を抜けると広々とした枯れ葦の野原に出た。前方に貯水池の堤が見える。
 11:55 A沢貯水池着。やっと着いた。道の合流する地点だった。
 ここで昼食にした。残りの茹で卵を食す。雲が晴れ、温かい陽が差した。テントを広げ、もう一度乾かす。半時間ほど休んでいる間に、ハイカーがひとり通っていった。テントを十分に乾かして、出発。貯水池を廻りこむようにして北の山地へと登っていく。前方の高みへと勾配のきつい山道を登っていくと、分岐点があらわれ、自然歩道の案内に沿って右へ、東方向へ折れる。見上げる高みへ登らずに済んだとほっとする。山の中腹の巻道になったが、おおむね下り勾配であった。原野から離れ、樹林に挟まれた山道になった。
 山道を下り切ると、ひらけた平地に着いた。公衆トイレの建物と案内標識看板がある。静岡ー山梨の県境であった。
 14:05 県境の公衆トイレ。実際の県境はここから5分ほど進んだ地点だったが、ここの場所の方が休憩所として整っていた。県境は割石峠と言って、少し上った小高いところに、その標識があった。
 山裾に沿う巻道をだらだらと歩む。北の方遠くに池面の光っているのが見えた。本栖湖ではなさそうだった。近くまで来ると、やや規模の大きい釣り池だった。森の木陰を透かして、バンガローやボート小屋が見えた。車道がつながっているらしく、人の姿も多く見られた。富士裾野の原野から、人里に下りてきたな、という気がした。空間の変容が元の俗風を復帰させ、巷の暖か味を彷彿させた。。
 車の騒音が聞こえだす。南北に通る国道139号線が、山道に寄ってきたのだ。土手上の国道を、うなりをあげて走る車の数々が見えてくる。しばらくは並行して歩む。林道との合流点に出る。自然歩道の標に従って林道からすぐ分かれ、今度は国道下を平行に通る地道を進んだ。暗い道だ。国道と分かれると、深い森の中への下り道となる。陽の通らないさらに暗い道だ。幾重に曲がり、しばらく森を歩んでいくと湖畔への分岐点にで、そこからペンションの看板があらわれだす。賃貸マンションのようなペンションの建物もあらわれた。大きなリゾートホテルの入り口標識もあらわれる。どんどん進むと舗装路になり、急な上がり坂になる。上がり端に赤い小さな鳥居がある。登り切ると、国道と合流した。町になった。ここに、目当てのスーパーがあるはずだった。今夜の予定は、そこで夕餉の食物、酒を買い、湖畔のどこかで幕営するつもりだった。昼食の折、二三の民宿に予約電話を入れたが、すべて断られていたのである。しかし、国道沿いのスーパー兼酒屋は店を閉じていた。店内にひと気はなかった。地図での想像から華やかな観光町を期待していたので、このうら寂しさにショックを受けた。日が陰ったせいか、急に肌寒くなった。蕎麦掻以外のものを口にしたかった。観光町の恩沢に浸りたかった。凡庸の輩にして俗に身を投じたかった。国道の交差点で、湖の方へ折れる。坂道を下っていくと、土産物屋や蕎麦屋が並んでいた。道の反対側に酒類も商っている土産物兼レストランがあったので、のぞいてみる。ビールとワンカップ二本を求めた。ついでに、ものは試しと宿泊できるところを訊ねてみる。以外にも、初老の女将は真剣に対応をしてくれた。その場で先方へ電話をしてくれ、知り合いらしく気さくな会話で話をまとめてくれた。17:00以降にペンションに来れば用意を整えてお待ちしております、ただし夕食の世話ができないので済ませてきてほしい、とのことである。で、このレストランで名物のほうとううどん定食を注文した。生ビールも飲んだ。レストランの窓から、夕照に光る本栖湖が見えた。    

motozuko     夕照の本栖湖

 宿がとれたという安堵もありビールの味わいもあり、素敵な景観に見ほれた。隣のテーブルでは妙齢のお嬢さん二人が食事を終わり、なにやらデザートを口にしている。日本語がほとんど喋られないようなので、どうやら台湾の観光客という気がした。言葉が通じないならと、面挨拶だけにとどめた。怪訝な表情をかえしてきた。
「湖水祭」というペンションへ行く。来るとき横目に通り過ぎた建物だった。洋風の戸建て住宅という様子だ。小太りの中年婦人は、電話で通じていたせいもあり愛想よく出迎えてくれる。2階の八畳ほどの洋室に通された。入浴を済ませ、部屋の石油ファンヒーターを焚く。4月とはいえ、夜は冷えた。洗面ホールに洗濯機があったので、Tシャツ、下着、靴下を洗う。TVのニュースを観、ビールと酒を飲んてくつろいだらたとえようもなく幸せ気分になった。居心地の良い宿だった。日本式の宿や民宿の半ばオープンな部屋でなく、完全に個室化してプライバシーを確保されるにわか領域も、昨今の若い世代の風潮として定型化されているのだろうか。10年間の東海自然歩道歩きを通じて、この日が最も長い一日だったという感慨があった。今まで知らなかった異質な景物を観、異質な空間を歩き過ごした体験は、我が精神に量的にも質的にも多くの糧をもたらしたと思う。

  

4月10 日曜日
 5:30起床
 7:00 下の食堂で朝食。味噌汁のついた和朝食の美味さを、改めて知る。食後、女将との会話の中で印象に残ったこと。冬は積雪のあること、森の動物たちが頻繁にあらわれること、猪、鹿、リス、それに一度子熊が玄関口にあらわれたそうだ。話は尽きなかったが、名残りを惜しんで出発する。
 8:10 ペンション出発。
 本栖湖の畔に下りる。ひろい駐車場に色とりどりの車が集まっていた。休日のカヌーやボート遊びらしい。薄日の差す湖面は濃緑色に凪いでいた。火山岩の露出した湖岸の凸凹道から北の城山へと、森の中へ踏み込む。幅広いハイキング道は、やがて国道に突き当たる。その下のトンネルをくぐると、深い森になった。このあたりから、青木ヶ原樹海の北辺に入ると、表示看板があった。右手の深い森の奥は、樹木の気ままな繁殖と人の侵入を阻む火山石の入り乱れた凹凸と、苔むした朽木の折り重なりなどが混沌として地を覆い、歩いて進むには相当の困苦を強いられそうだった。同じコースを歩むハイカーの姿はまばらだった。
 森を抜けると、精進湖への道路に出、その奥に精進湖民宿村の建物群が区画通りに整然と並んでいた。建物群の外周を廻る道路の南側の上に、街区の上辺を埋めるかのように雪をいただいた富士山が大きく聳えていた。目を凝らすと、頂上付近の雪襞が識別できそうなぐらい近くに見えた。精進湖への道路は行かず、民宿村のメインストリートを東へ歩む。ここの民宿は一泊二食付き¥6500と玄関口に表示されている、手ごろな料金だった。
 民宿村を外れ、再び樹海の中の林道を進む。樹海の森の中は、平坦ではなかった。ゆるい上り下りを繰り返した。行けども行けども同じような濃密に茂る樹林の世界があらわれる。「リングワンデリング」大きな円を描いて同じ地点を廻り続けているのでは、と錯覚をするほど同じような樹林の景色が再現される。疲れが弥増しに嵩じてくる    

zyukai        樹海の道

 左手に車の騒音が聞こえ、やがて樹々の隙間に国道が見え隠れしてくる。つかず離れず互いの道は相携えてだらだらと樹海北辺を進む。果てしなく思われる遠い距離だった。時間ばかりが容赦なく過ぎる。
 13:00 冨岳風穴着。コースタイムでは本栖からこの地点まで3時間である。自分の足は、5時間を費やした。きつい登りがあるわけでなし、休止ついでに居眠りをしたわけでもさらになし、どう考えても間尺に合わなかった。同じ場所を歩き回っていたのではないかと不安になってくる。樹海の魔物に魅入られたのだろう、と勝手に決め込んだ。冨岳風穴は観光名所なので当然観光客が集まるし、もちろん風穴へ入ろうとすれば料金も要る。金銭はともかく、物見遊山に興じる気持ちの余裕はなかった。樹海の魔手から逃れるために入口ベンチに腰掛けて少し休んだ。
 森の遊歩道を進み、鳴沢氷穴へ行く。にわかに観光の人々が多くなる。氷穴への方向と国道駐車場へ至る道の分岐点にあったテーブル・ベンチで昼食を摂る。二日前に朝霧グリーンパークのサークルKで買ったトーストパンに、バターを塗りこんで食す。チーズも口にする。北欧系かと思われる外人家族があらわれる。中年夫婦(奥さんがインテリタイプで細身であり、ご主人は赤ら顔の肥満系)と、高校生ぐらいの肥え気味の息子、10歳ぐらいの娘といった取り合わせである。彼ら(主に夫婦)は相談して、氷穴へ向かう。息子は歩くのが好きでないらしく、不承不承といった態でしたがう。ローティーンの娘ははしゃぎながらついていく。昼食の終わらないうちに、彼らは舞い戻ってきた。おそらく、途中から引き返したのだろう。道中で意見が分かれたのか、それとも全一致をみて引き返す方に決したのだろうか?私の食すバター塗パンをちらちら見ながら、末の娘は通り過ぎていった。
 鳴沢氷穴はやや規模のある観光拠点であった。おおきなロッジ風の建物があり、トイレとレストランがあり、土産物店もある。自動車道が入り込んでいるので、車・バイク、それに老若男女の物見遊山客が、にぎやかに集まっていた。自販機から缶コーヒーを求めて飲んだ。
 ここから北へと道をとり、紅葉台を目指す。国道の下をくぐると、ハイキング道の登りになった。登るにつれ、国道と山に挟まれた麓の景観が眼下に広がりだす。乗馬場の施設があって人と車のうごめいているのが見えた。樹木の少ないほとんど裸の山だった。急な登りは続く。後ろから馬蹄の音がのどかに聞こえてくる。ハイキング道とつかずはなれず平行に走る林道を、乗馬姿をきめこんだお嬢さんが、かっぽかっぽとトロットで気持ち良さげに進んでいく。普段見慣れないせいか、馬上のお嬢さんが美しく見えた。このあと、二組の乗馬女人が私を追い抜いて行った。疎林の山道を登っていく乗馬女人の姿は、一幅の絵になっていた。良い趣味だと思った。
 15:00 紅葉台の展望台着。薄汚れた一階の食堂に入ると、親父が顔をだし、展望台へ上がるには300円の料金が要ると言う。因業そうな顔つきなので気が引けたが、思い直し金を払うと展望台からの眺望図がイラスト風に描かれた手製のパンフレットを手渡され説明を受ける。屋上に上がると、30代ぐらいの着飾った男女が4人いた。車で来たらしい。樹海と富士山が視界の大半を領していた。圧巻であった。300円が良心的だと思えてくる。    

huzisan         紅葉台から眺める富士山

 八ヶ岳や南アルプスの山並みも、近くの河口湖やその周りの町も見える、360度のパノラマ景観であった。あいにくのうすぐもりの空であった。晴れていれば、その素晴らしさは、言をまたず倍加しただろうと想像する。
 一階に下りると、親父が先に下りた男女4人の土産物物色の相手をしている。因業そうな親父の顔が、人懐っこい好々爺に見えてくるから不思議だ。薄暗い店内には10組ほどのテーブル・椅子があり、片隅にビールやジュースなどの類が氷水に冷やしてある。壁に掲示されたメニューには、お決まりのカレーライス、肉うどん、ラーメン、親子丼などが掲示されている。ビールでも飲んでいかないかと親父が言う。喉の渇きを覚えないので、やめておこうと、自分は言う。山を下りたあたりに宿の心当たりはないかと、自分は問う。さあて、と親父は思案をする。下り切ったあたりに在るにはあるが散らばっているし、営業をしているかどうか不確かだ、大嵐あたりに民宿が集まっているからそちらへ行けばよいと、言う。道はどう行けば良いかと問うと、五湖台を下りて左へ進めば良い、そんなに遠くはないと親父は自信顔に言う。では、五湖台まではどのくらいの道のりかと問うと、人の足で1時間半と親父は言下に言い切った。ゆるやかな登り路であったが、徐々に急な上がりになってくる。途中、上から下りてきた乗馬女人に出会う。そこはハイキング道と林道が交差する地点だったので、馬に道をゆずった。「ありがとう」と馬上からあいさつをする女人は少し薹の立ったおねえさんだった。三湖台(1296m)のピークには道からはずれたところに一本の松の木と四阿があった。ゆったりした丘陵には下草が生え、晴れてさえすれば一日寝ころんですごすにはもってこいの気持ちの良い場所だった。ここから林道はいつしか山道へと様相を変え、馬は見えなくなった。樹木が増え、山道はいよいよ急な登りになった。
 16:30 五湖台別名足和田山(1355m)着。紅葉台展望台の親父が言ったとおりの所要時間だった。砦の見張り塔のような展望塔には上がらなかった。塔と下界を眺めて少し休んだ。    

gokodai            五湖台展望台

 時間が遅くはやく民宿を探したかったので、早々に下山した。下山路は、途中から山腹を直角に下りるこれでもかというような急坂であった。足運びに真剣に注意を払わないと、わけもなく滑りそうだった。長かった。下り切ると、保養施設の建物と駐車場があり、東海自然歩道の標は探せども見当たらなかった。地図を読んでも確かな道筋は分からない。道路の右へ行くか左へ行くかと迷う。右へ行けばより広い道路へ出るが逆の西方向だ。左方へ下っていくことにした。自然歩道であるなら車道は不自然だというので、途中の村道へ分岐する。北へ歩いていけば地図上の大嵐へ達するだろうと踏んだからだが、村の中で道は曲がりくねるので、見当違いに気づく。農作業を終えたらしい40代ばかりの壮年男子にたずねてみると、大嵐へは行けないと教えられる。近くに宿などないかとさらに聞くと、国道へでればペンションもあるが、場所は逆戻りの方向なので自分はだめだと言う。こちらの問になにかと丁寧に親身になって答えてくれるので、それだけでこの農夫の篤実さとふだんの生活の真面目さが伝わってくる。大嵐へ行くための道を詳しく教えていただいた。村の里道を通っていくと車道に合流した。バス停が合流点にあった。大田和の鳴沢村というところだった。車道を北へと進むと、さらに幅広い道路に斜めに合流した。どうやら太い県道らしい。片側の歩道を北へと歩む。日が暮れ始める。地から闇が染み出すように影が濃くなってくる。宿を見つけられるのか、かつ見つけたとして夜までにたどりつけるのかどうか、おぼつかなくなってきた。どこかで幕営することも想定しなければならない。長丁場になりそうだった。東海自然歩道のコースからまったく外れていると観念した。空腹と喉の渇きを覚える。遠くを観ると、道脇に明かりが見える。あたりの辺鄙な山あいにぼつんと一軒あるっきりの飲食店であった。媼がひとり店を仕切っている。近所のひとらしい老夫婦とトラック運転手らしい中年男性の先客がいた。馬刺しと生ビールを食す。馬刺しは町の料理店のようなちまちました量でなく、皿にたっぷりのっておりその野生味も素朴でおいしかった。媼に宿を訊ねてみる。勝山へ行きなさいと、ただちに答えが返ってきた。あそこには民宿が何十軒だか分からんぐらいにたくさんあるのですよ、是非行きなさいと老婆は熱をこめて言う。この道をまっすぐ行けば一時間もかかりません、30分ぐらい、と言う。濃い夕闇にとっぷり沈み込んだ道の片側を、歩む。結局、紅葉台の親父がいった大嵐の宿は、勝山民宿村のことだったらしい。坂道を下っていくと町明かりが増えてくる。両側に別荘様の家屋が続く。町通りの交差点を左へ分け入る。日の落ちた辻の中に明かりの灯る家々を探しまわるが、民宿の家はそれほど多くない。民宿と看板の挙がった一軒を訪ねると、あらわれた老婆が宿は廃業したと言う。また今夜も屋根の下は無理かなと不安がかすめる。街灯に照らされた看板の電話番号に電話をしてみると、素泊まりならと受けてくれる宿があったので、そこへ決めることにした。丸富荘というその民家はすぐ見つかった。ご主人が出迎えてくれる。酒は置いてないかと問うと、無いと言う。それなら、近くのスーパーへ車で案内しましょうと申し出てくださる。ありがたいとこちらは素直に親切を受ける。話好きな男性で、スーパーへ向かう車中で、旅の有様・苦労話などをじっと聞き、外国人が最近多くなったなどの逸話を話す。話の中で外国人の話があり、日本人のダイジェスト風に名所を見聞してまわる旅行ではなく、彼らは一つ所に落ち着いてその土地の風物に溶け込もうとする、そして、彼らにとって旅先での予定外のアクシデントに出くわすこと自体が旅であり醍醐味であり旅の本質である、云々。そうですね、と私は処を得たように同感する。
  規模の大きなスーパーで寿司と日本酒とワインの小瓶と、朝食用にカツサンドとインスタントコーヒーの袋を買った。アジア系の若者たちが大勢買い物をしていた。最近頓にアジアからの観光客が多くなった、とご主人の言。今夜は修行あけの大ご馳走だね、と蕎麦がきばかりに明け暮れた自分の話を引き取ってご主人は茶化す。朝早く起きたら一緒に湖畔の散歩に行きましょうと誘ってくださる。5時半の約束だった。

  

4月11日
 5:00起床。今日は、旅を打ち切って大阪へ帰るつもりだった。4月15日には仕事に赴かなければならなかった。
 5:30 ご主人の車で、いったん湖の反対側のホテル「秀峰閣湖月」駐車場まで行く。近所の同好の士ら20人ほどと交わっての早朝散歩会であったのだ。輪になって準備体操をした後、簡単な自己紹介をする。この集まりは、両手ストック歩きを普及するための会だと聞く。湖を左回りに歩む。空身で歩くことの足の軽さを喜ぶ。「背中に羽が生えたようだ」と言うと、ご主人はその言葉に印象づけられたか、歩きながら何度もそのフレーズを口にされる。知に関心を持たれるような人なので歩きながらも話の種は尽きず、世相のことや山のことや、文化一般について語り合う。この地方ではこの頃がちょうど桜の満開時期だった。桜と湖面に映る逆さ富士のとりえが絶妙だったが、湖面にボートなどのさざ波が立つとうまく映らないらしく、写真もうまく撮れなかった。桜と富士山の構図を写真に収める。  

kawagutiko   河口湖の桜と富士山

 8:20 民宿丸富荘を出発。ご主人は親戚の慶事に出られたというので、奥方に別れの挨拶をする。
 旅の最終日、勝山の町筋を折れて旧街道を進んだ。この辺り地図と勘を頼りに歩くので、2度ほど行き戻りして進路の修正をした。
 9:30 河口湖駅。人がたいそう多い。とりわけ、外国の観光客が目立った。離脱
 10:20 高速バスで河口湖駅を出発。車窓の富士山に,また来る日までお別れだ。
 11:50 三島駅。駅構内の「shioya」というレストランでステーキ定食を食す。ビールもおいしかった。
 16:00 新大阪着。
 出発当初は高尾山ゴールを目指したにもかかわらず、不才の意気堕弱と脚力ふがいなさにより結果的に日数不足となり目的は達せられなかった。しかし、10年間の東海自然歩道歩きの中で、今回が最多日数の行程であり、華やかな風物に接することも極に達した。東京高尾山まで、あと余すところ5日ほどの距離である。その実現はほどなくやってきた。
  2週間ほどして、春のゴールデンウィークに連続8日間休めることになった。この機会を逸するわけにいかなかった。早めに夜行高速急行バスの予約をネットで申し込む。4月27日夜、梅田発の予約はとれたが、格安の便は逃した。富士山駅まで、2千円高い8700円の料金である。

  

2016年 4月27日
 夜行高速急行バスで梅田を発つ。この夜と明日はどこもかしこも雨の予報なので、ビニール傘を持参する。今回の旅は、10年来の東海自然歩道旅の最後の締めくくりであった。テントは持参せず、寝袋とマットだけを用意した。食料その他は前回の旅と同様である。要所に山の避難小屋があるので、利用するつもりだった。先回の旅が東海自然歩道中随一の見どころハイライトでありいわば華であったのに対し、今回は、対蹠的に厳しいむきだしの冷徹な地肌を見せつけるはずだった。最後の関門として、処々に高峻な山塊が立ち塞がっているのだ。
 快適なバス旅だった。アジア系の観光客が多く乗り込んでいた。明け方の車窓に本栖湖や朝霧高原附近の見知った風景を観て、ついこの間に触れた生々しい想いがよみがえり親近感をもよおす。
 4月28日 注)河口湖駅〜富士山駅の東海自然歩道コースは町筋なので、不本意ながら割愛した。
 8:40 富士山駅着復帰、雨。ここまで乗り合わせた客は、30代らしき女性ひとりだった。駅ターミナルビル内で、朝モスバーガーを食す。閑散としていた。傘を広げ、南の国道へと裏通りの道を歩む。雨の中、前途洋々たる旅の緒とはおよそ似つかわしくない近所のコンビニへ買い物に出かけるような風情である。国道138に出てしばらく歩道を歩んでいくと、浅間神社という大きな社の入り口に着いた。うっそうと茂る森の奥には入らなかった。この国道138号線別名「旧鎌倉往還」が139号線富士見バイパスと合流する大きな交差点を渡ったバス停から、斜めの脇道へ逸れて歩んでいくと、鐘山通りと謂う山麓沿いの道に入る。突き当りの建物前を左へ折れ、上り加減の道を行くとすぐホテル鐘山というこじんまりとしたホテルがあらわれ、右手へ分かりにくい裏道を入っていくと川と橋に出る。この辺りは幾本もの大小の路が錯綜しており、よく道標を確認して進まないととんでもない方へと迷ってしまうところだ。あたりにひと気はなく、森と川が静まり返っている。橋を渡り、富士聖ヨハネ学園(実はホテル)の建物を左横目に見ながらやや急な坂道を上っていくと、山すそにちいさな倉庫のような水力発電所があらわれる。何用に使う電力を発電しているのかと興味をそそられるぐらいに規模がかわいい。発電所すぐ上の山地を越え登っていくと、歩きやすい散策路の山道になった。雨が降っていなければ、朝日の木漏れ日が落ち葉をゆらめかせる清新な雰囲気を楽しめたろうと思われる。しかし、雨もまた奇なり、みずみずしくしっとり落ち着いた木の下闇の道もまた捨てがたい。こんな素敵なコースをよくぞ選定してくれたものだと、役のひとには敬服する。巻道を下っていくと川沿いの林道に下りた。川に沿って進んでいくと町並みに呑まれ、忍八海の観光案内標識があれこれとあらわれる。
  10:50 土地に不案内なので、どの道を進めばよいのか迷う。T字路に出ると山中湖方面の文字が見えたので、そちらの方へ進む。(実際はまっすぐ進むのが正当のコースだった)忍八海中心部への道が分からないので、そのままずんずん進む。車の頻繁に通る郊外道といった雰囲気になった。雨中歩きなので先へ進むことばかりに気が逸っていたのだった。結局、忍八海の観光名所へは行きそびれ見学はできなかった。意地めいた天邪鬼の気性がはたらき、人の大勢集まる観光名所などどうでもよくなった。しかし地図を読んでも現在地の特定ができなくなり、道を失ったようだった。後に地図を確認したが、想いおこすにつけ大失態であったとおおいに悔やまれた。つまりは雨だった、無情な降りがわたしの眼と意識に勝手な帳を下ろしたに違いない。
  12:00 柳原交差点。かなり進んだ挙句、北東へむかう道との交差点があらわれ付近に大きなうどん屋があったので昼食に入る。店の人に地図を示し、ここの現在地を尋ねる。店のご主人が、手の空いた合間に、現在地と東海自然歩道への復帰路を丁寧に教えてくださる。いくら客商売とはいえその親切心には感心したし、自分の旅の前途を励ましてくれるような雰囲気さえあった。生ビールと太い麺の天ぷらうどん大盛を食す。うどんはたいそうな量だった。
教えられた北東の道を進むと、細い径に東海自然歩道の標が立っていた。右へ折れる。

浅池の湧水 浅池”align=  田舎道を歩んでいくと、「浅池の湧水」という看板がある。高級そうな料亭の庭にあるらしいが、道からも自由に出入りできるので池の端に入ってみた。清い流れの小川があり、庭園橋があり、柳が池畔に枝を垂らしており、四阿付近に見物客のちらほらとたむろしているのが見えた。奥に借景の山が見え、なかなか興趣のある庭園だった。

 このあたり、道が何度も折れ曲がりどこをどう通ったのか覚えもはっきりしないけれど、忠実に東海自然歩道の標にしたがって進んでいくと、ハリモミ純林という有名な森の道に入った。後に、地図上でたどった道をトレースしてみたが、さほどまぎらわしくはなかった?背の高い木が鬱蒼と茂る森であった。通り抜けるのに30分もかかったろうか。看板の説明書きを読むと、これだけまとまったハリモミの林は、世界的にも珍しく貴重な学術自然だと言うことだった。すべてが雨にぬれて色あせているので、色彩にとぼしく感興をもよおさなかった。
 平地から山路へと別荘地を通って上がっていく。上がるにつれ風雨が強くなり、時に小降りになったりした。ポンチョを身に着けたのでビニール傘が邪魔になったが、ひょいと思いつき左手に持って,もともと右手に持つ杖と合わせ、両手ストックの代用にしてみた。これが意外に調子よろしい。急な勾配を登るとき、身体を引き上げる効果がある。世間に多く見る両手ストックの有用性を、あらためて知った。
 14:25 大平山頂上(1295m)労せず登れた山だった。標準のコースタイムより20分早く着いた。両手ストックの効果かな?広い頂上にアンテナ塔とトイレと四阿の休憩所があった。二人の中年男性がいたが、かれらはアンテナ・電気設備の保全要員らしく、施設の制御盤扉を開けてメンテナンス作業をしていた。挨拶をしてみるが、登山者には関心がないらしく型通りの短い挨拶しか返ってこなかった。連休前の、こんな雨の日に千メートルを超える山へ上がって仕事をする彼らには、すこしは同情するものがある。
  15:15 平尾山頂上(1267m) 大平山で本日の山登りはおしまいだと思っていた当方にはやれやれという気もしたが里に近い山なので別荘地の家々が遠望できアップダウンの道もそれほど苦にならず頂上についてしまった。雨脚は徐々に衰えてくる。石割山への山道途中で南寄りの道へと分岐する。途中また1ピークがあった。長い山道を下っていくと、里の道路に下りた。
16:10その降り口(登山口)に石割山神社という社があった。東海自然歩道の矢印表示はない。右へ行くか左へ向かうかしばらく思案するが、坂の下る方、右へと行く。家並みが建て込みだしたあたり左路傍に東海自然歩道の分岐表示看板があらわれた。畑が家並みのはざまにみえる田園の鄙びた道を東へ歩む。しかし、家並みは途切れてくる。途中に見かける民宿やホテルはどれ一つとして営業はしておらず、ひっそりと入り口を閉ざしていた。山中湖村と言う観光地なので、宿には当然泊まれるものと安心しきっていたのだ。ネットで調べた宿に電話をしてみる。相手は平野屋旅館協同組合と名乗った。目当ての平野屋には間違いないので、宿泊を頼んでみると、宿に当たってみるから折り返し当方のスマフォに連絡すると言う。とりあえず、元の分岐点へと引き返して行くと雨あがりに外へ出てきた家人が民家の玄関口に立っている。六十代ばかりの日に焼けた背の高い壮漢である。先に声をかけると、どこへ行く?と問う、これから宿へ行くと自分は言う、宿ならこのあたりにもある、と男は言う、たいてい閉まっていた、明日からゴールデンウィークなのに、なぜ開かないのだろう、と自分は言う、ゴールデンウィークになれば営業をするだろう、宿は決まったのか、と男は言う。平野屋に泊まるつもりだ、と自分。ほう、平野屋にか…、と男が感心した風に絶句した。
 元の車道に戻り南へと歩んでいくと、町並みが混みだして様々な店が軒を並べてくる。交差点に近く酒屋があったので、地酒ワンカップを二本求める。平野屋の在りかを尋ねると、交差点を左へ折れずっと進めと言う。名の通っている旅館らしいと察しがついた。交差点にはセブンイレブン、レストラン、茶店、宿が集まり、にぎやかな一画を成しており、車やバイク、観光客(特にアジア系の若者)が、道の両側を右往左往していた。この山中湖村の中心地のようだ。早く宿に落ち着きたいので、南へと道を急ぐ。
 平野屋旅館は、道脇に広大な敷地を領し、庭園として整備された樹々の奥に、何棟かの瀟洒な建物群(どれが本館ロビーなのか分からない)を構えているのだった。高雅な宮家が利用しても見劣りしない相当に高級な宿だと見えた。少々宿賃がかさもうとたまには良いだろうと泰然と臨んだが、この時スマフォに旅館協同組合の女人から電話が入り、今どこですか?と問うので、平野屋旅館と答えると、そこではない、民宿を手当てしたので協同組合のあるセブンイレブン裏の事務所にすぐ来なさいと、言う。平野屋旅館は格式が高すぎて、薄汚れた歩き旅の人間には百中無理だったのだ。しかし、一抹の惜念も残った。
 セブンイレブンのにぎやかさから一歩裏へ廻ると、そこにはじめついた空き地に倉庫のような2階建てがあるのだった。「ご用のある方は二階へあがれ」とあるので(一階は公衆トイレ)、ごてごて観光案内のパンフなどがところせましと陳列された一坪ほどの2階ホールへ上がると、ガラス向こうのデスクを三つ置いた部屋に、おばさん(50代かな)が愛想よく迎えてくれる。「平和荘という民宿なの、夕食は用意できないけど、良いかしら?もし良いのでしたら、わたしもここの仕事がすぐ終わりますので、待っていてくだされば車でお送りします」と、たたみかけるように言う。こちらは,なりゆきまかせ、おっしゃるままに否やは申しません、という態度をあらわす。エベレスト初登頂の折、最後のチムニーを登る段になって、シェルパのテンジンがヒラリーに言った言葉「神のおぼしめすままに従います」が、不遜にも頭の片隅に過ぎる。まったく不遜なひらめきである。
  民宿は素泊まりであった。朝食をあてにしていたが、若い女将(嫁かな?)は予想外だと言う顔をした。たった一人の泊り客のために、朝食をしつらえるなど面倒だといわんばかりである。夕食は外出せず、蕎麦掻を肴に酒を飲んだ。朝食はコーヒーと乾パンを食した。ポットの湯はぬるくなっていて、インスタンコーヒーの粉が充分に溶けずざらついた。

  

2016年 4月29日、快晴。
 6:30 民宿を出発。今日は山梨と神奈川との県境稜線(甲相国境尾根)を縦走する大事な日であった。稜線には、東海自然歩道の地図を見るたびに常々注目していた菰釣山(1379m)がある、そこから東方へ稜線をたどると畦ヶ丸山(1292m)がある、地図でみると、自然歩道中随一の長さがある尾根道だった。山のネーミングに惹かれたのかもしれないし、人里離れた結界のような雰囲気と東西にほぼまっすぐ連なる尾根道に、仙境のロマンを観たのかもしれない。
 雨上がりの空気が澄み切った、清々しい朝だった。抜けるような青空に、白雲がぽかりぽかりと浮かんでいる。歩きながら左斜めに見える小高い山を確かめるのに地図を観た時、道の間違いに気づいた。セブンイレブン前の道をそのまま南へ歩き続けていたのだった。前夜からそのように思い込んでいたから怖い。30分ほどかけてセブンイレブンの交差点へ戻り、今度は東へと歩む。テニスコートを多く見かけるし、そのような施設やホテルが目立つ。舗装路から分かれ、畑中の倉庫のような(人が住んでいるような気配もあった)建物の点在するさびしい道を歩む。道はぬかるんでいた。東海自然歩道標識に合わせ北へ折れていくと、別荘地に出る。別荘地の途切れるまで急な坂を登っていくと、視界が開かれる。低木をまとう高指山(たかさすやま)の丸い頂きが、上方に見えた。急ではあるが丘のような登りだった。
 8:00 高指山頂上(1174m)

takasasuyama 高指山道標   

  眺望のひらけた頂上だった。木立から離れると、山中湖の町と雲をなびかす富士山が、独り占めできそうに指呼の間に観えた。  

yamanakako   山中湖村と雲にかくれた富士山

                    頂上休憩のベンチで休んでいると、50代後半かと推し量れる年齢の背の高い引き締まった体躯をした男性が上から下りてきた。地黒なのか、陽に焼けて肌がくろい。早朝に道の駅を発ち、登ってきたと言う。それはどこか?と自分は問う。山伏峠の国道だと日焼けの男は言い、これからまた戻ると言う。軽い山歩きのようだった。先の尾根の状況を聞いてみると、菰釣山も畦ヶ丸山も日帰り登山では無理なので、未だ足を踏み入れたことがないと言う。男はベンチに落ち着くと、ものを食べ始めた。にぎやかな3人連れの中年男女が通りかかり、山中湖へ下りて行った。そういえば、今日はゴールデンウィークの初日だった。辺境の山とはいえ、ひとのにぎわいが予想された。この高指山は、これからむかう国境尾根へのいわば前哨点であった。
 8:20 富士岬平。雲が一瞬途切れ、山中湖の湖面と富士山が見えた。

fuzimisakitaira 富士岬平から望む富士山と山中湖   

      岩稜と木の根を攀じる箇所が随所にあらわれる、健脚コースだった。両側の切れ落ちた痩せ尾根もあり、足元に注意用心。
 9:00 山伏峠分岐(1268m)(水の木分岐)に着いた。あとはひたすら東へと尾根道をたどるのだ。長年の想いがこもるこの稜線にとうとう足跡をつけるのだという無量の感慨が湧く。峠は猫の額ほどの広さしかなかった。軽い行動食を摂っていると、高指山の精悍な日焼け男性が追いついてきた。早いなと思った。男性とはここで別れを告げる。
 アップダウンを繰り返しながら、上へ上へと高度を上げていく。夢中だった、気負っているのが自覚できる。
 10:10 石保土山ピーク(1297m)
 アップダウンがさらに続く。きびしい登りになってくる。対向からの登山者二人と行き会う。本格登山姿の人たちだ。
  10:55 西沢の頭(1306m)
  急な山道だとはいえ、道は良く整備されているし、随所に標が立っており残りコース距離を示してくれるので気疲れせず歩ける。
 12:55 菰釣山(こもつるしやま)頂上(1379m)平地から6時間余りを費やした。想定では、4時間のはずだったが・・・。ひとつの句読点を記(しる)したという思い。そこそこ広い頂上に2対の木製テーブル・ベンチがあり、苦労した登りのねぎらいと四囲の眺めを存分に楽しんでもらおうとの、県のもてなし配慮が如実に伝わってくる。登ってきた同じ下の方から青年が駆け上がってくる。トレイルランの人だ。端正な顔立ちの好青年だった。息をあえがせ、いやーきついね!と第一声。気さくな話しぶりにつきあっていると、さらに二人が、こちらは必死の形相に汗を浮かべ駆け上がってきた。ふたりともばてばての態で、ベンチに寝転んだ。しかし驚いた。空身とはいえ、このような急峻な山道を駆けるその体力をその「やる気」を・・・ひそかに羨む。3人はがやがや話しながら、おにぎりなどをウエストバックから取り出し昼食を始めた。自分もミニバウムクーヘンとチーズを食す。トップを走るリーダー格の青年が、どちらまで行かれるか?と問う。畦ヶ丸小屋と自分は言う。遠いですね、と青年。東海自然歩道のコース案内看板が立っており、かれらが「犬越路」という名を口にして談論するので、明日には自分もそこへ行くはずだと割って入り、袖平山はご存知かと問うと、袖平山はきつい、登りのきつさはここの比じゃないです。だいいち距離が長いし登りもきついです、と青年はにわかに真剣な顔で言う。意中の山を登り終えた自分の浮かれ気分をこの言葉は少々緊縮させる効果をあげたし後になって有益だったと思い知らされる。樹の間に富士山が見える。雲がまといつき、全容を見せない。  

komoturusiyama  菰釣山からの富士山

 昼食を済ませた3人は、急かれるように東へと駆け下りていった。菰釣山避難小屋附近から国道への下山路があり、別れ際そこから「道の駅まで下りる」と言って下りて行った。
 急勾配を下っていくと、鞍地に避難小屋があった。うら若い女性登山者が小屋の外に立っていた。小屋の中の連れを待っているらしい。唇に引いたルージュの赤さが目立った。
 県境稜線縦走の苦労は、それからも果てしなく続く。東へ進むにつれ、より険しくなるように思われた。
 15:20 城ヶ尾山(1198.7m)頂上。少し進むと城ヶ尾峠に着いた。南北に通る山道との分岐点。
 16:00 大界木山(1240m)
 尾根道はやせ細り、両側が急峻に立ってくる。登りはきつい、というより体力を削ぎ落されてきたような。次の目標点「モロクボ沢の頭」への標に記された残り距離の数字が、芳しく減らず気を惑わす。岩稜がむき出しになり、一見ルートとは思えないような崖状の斜面を登る。
 17:00 モロクボ沢の頭着。ここまでたどり着ければもう少しという思いに、この沢源頭の少々広さのある鞍地で大休止。コースはここから南へ分岐する。畦ヶ丸小屋は、つい目と鼻の先だ。登りとはいえ、残り距離は600mに過ぎない。
 夕闇が空の残照かりから離れ、樹林にしのびよる。
 最後の急登は手ごわかった。一時間ほどを費やして登り切ると、上がり傾斜が落ち円い頂部が見えた。
 17:25 畦ヶ丸小屋着。
 幻想的なほど時間と距離がでたらめに乱れたので、まるい頂き状の場所に上がった時、半ばは小屋の存在をあてにはできない不信の念が生じていた。実際、薄闇に沈んだ頂には樹々しか見えなかった。しかし、頂きからすこし奥まった場所に、樹にかくれるようにして待望の小屋が在った。小屋に泊まれることよりも、目標の地点にたどり着いたという喜びの方が強かった。
 相客はいなかった。土間の真ん中に大きな鋳物製の薪ストーブがあった。燃え残りの焚き木が中に入ったままだった。暖が欲しかったので、外から小枝を集め火をつけてみたが何度試みても成功しなかった。キャンドルランプの下で、湯を沸かし蕎麦掻を食した。日本酒は無かった。小さな容器のわずかなウィスキーを口にした。
 印象に残る一日だった。

  

4月30日
  5:45 小屋出発。晴れ。
 険しい急勾配を下る。本当に避難するだけに設けられたような小さな小屋を過ぎると、沢道に下りた。大滝沢だった。
 8:00 大滝橋。西丹沢に入った。
 ここから車道を北東へと渓流沿いに歩む。河内川の河原は一大キャンプ場になっており、たくさんの車と大型テントとキャンパーでにぎわっていた。箒沢と言う地点から幹線道と離れ、高台へと上がる村道を行く。坂を上がり切ると、箒杉という名物があった。地図では点三つの記号があるので、史跡・名勝なのだ。太い幹まわりの老一本杉だった。   

houkisugi           箒杉

 高台には、こていな料理屋、しゃれた茶店、民宿、温泉宿が、道沿いに続いた。山あいにのんびり遊ぶには、なにやら惹かれるものがあるところだった。さっぱりした身なりで再訪したいと思った。
 高台から下ると、元の幹線自動車道に合流する。
 9:00 西丹沢自然教室着。
 河原に広いキャンプ場のある畔、登山拠点のような構えの建物がある。名に聞く、西丹沢自然教室だ。なんびとにせよ、ここで登山届出書を提出しなければならないらしい。まわりに登山者やキャンパーがあつまり、ひときわにぎわしい場所だった。建物内には案内書・トイレがあり、茶店などもあり、なによりひとが右往左往しており、ひとの息吹に触れることが妙になつかしく思われた。係の青年に届書を手渡すと「わーすごいや!遠くからこられたんだぁ」と大きな声をあげる。最終目的の高尾山と聞いて、さらに大声。神奈川県の山案内の冊子があるのでどうですか?と言ってくれるが、荷物になるので丁重にお断りをする。
 自然教室につづいて現れたキャンプ場は最も規模の大きく、河原はおろか道の東側高台までを領していた。道から一段上がったところにキャンプ場が経営するらしい売店がある。キャンプ用品、衛生用品、食品、酒類と、キャンプ生活にこと欠かない一通りの物を売っている店である。二日続きの蕎麦掻に少々食傷気味であった。身体が油っ気を欲しがっていた。カップヌードル(自分の好みである)とカップ焼きそばを求める。ワンカップと缶ビールにも手を伸ばしかけたが、時間も早く、また重くなるので断念した。先の道中は長く、また手に入るだろう、とりあえずは残り少ないウィスキーを飲みつなごう。
 ここから先は、単独ハイカー、家族連れハイカー、登山者と、様々な人が自分と同じ方向へ、谷の奥へと向かっていくのだった。たいていの人は、私を後ろにした。
 9:40 用木沢出合い。谷の二股である。右手の東へと分かれる。車はこのあたりまでしか入れない。舗装が切れ、山道になる。途中無理して上がってきた車がスタックしていた。誰も無視して片側をすり抜けていく。
 沢道を登る。源頭に近くなると、樹木が消え草付きのがれ場が目立ち、上を見上げると先行の人たちのつづら折りの各高さ地点を難儀しながら登っているのが、遠望できた。
 11:45 犬越路着
 私を追い抜いて行った人たちの顔が、峠の休憩所広場に見えた。みなさん、昼食の弁当を楽しんでおられる。頑丈な避難小屋も峠広場の奥に在った。中に入ってミニバウムクーヘンとチーズとミックスナッツの行動食を口に入れる。あとから入ってきた中年登山者の男性は、無言のまま厳しい表情を沈め、テーブルについて休み(わたしは板間に腰を下ろしていた)、終始黙っていた。話しかけるのがためらわれた。
 山の十字路の犬越路から、北東の方角へと下山をする。人影はなくなった。道は荒れていた。途中で中高年登山者二人連れを追い抜く。沢道であるが、荒れたがれ場が小さな枝沢を渡る度にあらわれ、足元に緊張を強いられる。場所によっては危険な個所もあり、実際眼前に小規模ではあるが斜面の崩れる場面にも遭遇した。
 沢を下り谷の出合いに着くと、ひらけた河原にキャンプ場と大正ロマンを彷彿とさせる板張りの2階建て家があらわれる。神ノ川ヒュッテである。谷の三つ集まる三俣である。こういう渓流の瀬には、魚が集まり渓流釣りには穴場 である。
 13:10 神ノ川ヒュッテ着。

2kannokawa" 神ノ川ヒュッテ   

   ネット情報では、事前の予約と3人以上の宿泊でないと受けてはくれない宿だと聞く。でも、足が歩くのを嫌がっている、口は蕎麦掻に食傷している、このような山峡に身を休めたいとおつむが囁く、したりして、建物玄関前を行き戻りしてみる。中からむさい60歳過ぎだと見受けられる親父が、きわめて平和な表情を浮かべて出てくる。顔が合う、あいさつ、あのう、と自分は宿泊を断られてもダメ元と言う感じで、おずおず言う。今夜一泊お願いするのは無理でしょうね?と。ああ?泊まるのか?いいよ。だけどご馳走はないよ、だって料理を用意してないんだから。うん?、屋根だけあればいいってか、そりゃあ、あんまりだ、飯ぐらいあるさ、おかずはなんでもいいのか?うん、自分でおかずを持ちあるいているんだって、そりゃ、泣かせるね。ま、いいや、俺がかってに決められやしねえんだから、おばさんが今に戻ってくるからな、おばさんがうんといえや、それで良しだ、なに、かた通りの手続きさ、おばさんな、うん、まずあんたなら良しというに決まってらあな。ま、安気にかまえて、お茶でも飲みなせい、と親父は妙にとっかかりのよい人物だった。玄関前の野天のテーブルに向かい、親父の淹れたほうじ茶をいただく。美味い。親父は酎ハイ缶を手元に置いて、山蕗のえり分けをしている。遠くの河原からかすかなBQの匂いがただよってくる。子供の歓声が聞こえる。今日はもう歩くことはなさそうだ、この山峡にゆっくり身を溶け込ましてくれようか、とこれまで味わったことのない平和な空気を目の当たりに見る。そのうち、老婦人があらわれる、親父が寄っていって二言三言、疲れたので今夜一泊休みたいとおっしゃる。老婦人は、まあどうなさったのですか?と自分に言う。泊まらせてほしい云々。2階の大部屋へ上がり、旅装を解く。天井の低い、カーペット敷の雑魚寝用の大部屋だった。片側にプライベートな個室が二つある。もう一方の端には、布団がうず高く積まれてある。窓のすべてが開け放たれていた。窓辺の壁にもたれかかり、くつろぐ。山峡の澄んだ空気が、ゆるやかに過ぎる。まどろんだ。目覚めると、窓から見る河原の樹々が、夕映えを受けて一日の仕舞の色相を光らせている。そして、陽の終わりを惜しむようにしっとりと陰りだす。梯子のような急な階段を伝い、下のロビー兼食堂の、真ん中に薪ストーブがある場所へ下りる。缶ビールを片手に持った親父が、もうすぐ風呂が沸くと言った。野天の五右衛門風呂だ、蓋を足の下に沈めて入るのだ、と言う。東海自然歩道旅の模様を話題にして、親父と老婦人と雑談をする。西丹沢から犬越路・この神ノ川ヒュッテは、トレイルラン競技のコースに当たると言う。沢道のがれ場は危険だ、下りてくる時山崩れがあった、と自分は言う。それは、たいへんだ、整備するように本部に連絡しておかないと、と老婦人は言う。往年の美貌がこの時あらわれた。歳は70だと言う。太りじしである。女の美しさとは、その顔かたちだけでなく、その挙措の間合いと切れ、対話の時宜に応じた愛嬌のある受け応え、意識下の自然な媚に、その実体があらわれる。粋筋の境涯に久しく身を馴染ませた女人かと思われる。実はこの二人、このヒュッテの主ではなく、このキャンプ場一帯を仕切るさる企業の出先の人たちであり、夫婦ではない。しかし、親父の老婦人に対する下僕のような敬し方には、少しく気を留めるものがある。ヒュッテ裏の河原に近寄った場所に野天風呂の小屋掛けがあった。木の蓋を足下に沈めて浸かったが、温まらない。浸かるほどに冷えてくると肌が言うた。風呂から跳ね出て傍らに備えてある薪を二本、釜に放り込む、熾火がむかえる。湯が沸く、下に渓流に遊ぶ子供の姿が見える。川上を観ればBBQ小屋から、香ばしい煙と笑いさざめきがわき上がる。河原の風が、ほてった顔を撫で過ぎる。遠くの方におねえさんがちらほらこちらをうかがう。どこからもお見通しだ。焼けた背中の鉄が熱くなるので、身体の向きを変える。身の安息と無窮の落ち着きをあじわう。風呂からあがって、ロビーのテーブル(山の木を台のように不器用に組んだもの)に落ち着く。黄昏時といった外の気配。ビールを所望する、待つほどに、缶ビールと茹で上がったばかりの卵と山菜のお浸しが、老美人女将の手で出される。風呂に入る前から集まっていた近郷の釣り師たち4人がにぎやかに出入りしている。釣った魚をさばいたり、女将とよもやま話に興じたり、親父の2リットル入り焼酎のペットボトルを見つけて、勝手に水で割って飲んだり、云々。老婦人を中心にしたサロンのような雰囲気だ。キャンパーの男性何人かが、いろんな用を持ち寄って出入りしてくる。このあたりはスマフォ電波の圏外なので、ヒュッテのダイヤル式電話が唯一の通信手段なのだった。女友達に用を伝える若い男性も、この電話を借りに来た。私は、ひとり黙念とビールを味わう。夜の帳が下り切る前に、釣り師たちは帰っていった。親父にこまごまと指図をした後、老婦人も実家のある篠原の里へ車で帰っていった。親父と二人きりになると、外はすっかり暗くなっていた。親父と酒盛りをした。女将の用意していったらしいカレーライスを食す。添え物の山菜のお浸しや小魚の佃煮も、酒の肴になる。釣り師たちにもらった山女魚があると言うので出してもらい、ストーブに炙って塩焼きを二人でほうばる。親父の山家懐旧談は尽きない。電気のきていない山奥で育ったという。平々凡々と身過ぎをしてきたが町へ出たことがほとんどないので、山の生活が良いのかどうなのか分からないと言う。夜更けて2階大広間窓際に寝床をとり、これ以上なんの過不足のない御殿の安眠に沈んだ。

5月1日
  晴れ。渓流の水気に染まった白い空気がたちこめていた。明るくなるにつれ白い水気は上へと昇っていった。野鳥の声が遠近に聞こえてくる。キャンプ場と今日向かう道のあたりを散歩する。なにかのミュージアムか休憩施設かと見まごう三角屋根の立派な公衆トイレ建物が、芝生の広場に面して在った。傍らに東海自然歩道の案内大看板が立っている。どうやら、東海自然歩道用の施設らしいと、察しがつく。女性キャンパーの幾人かが、トイレに用を足しにやってくる。デイパックの男性がどこからか戻ってきて、駐車場の車の方へ行く。
 親父の給仕で朝食をいただく。これと言っておかずはないが、それでも目玉焼きと豆腐の味噌汁がおいしかったので、どんぶり飯をお替りした。弁当にと、親父心づくしのサランラップ包みのおにぎりをいただく。名残は惜しいが、言葉少なにヒュッテを辞す。
 6:50 ヒュッテを出発。今日は、昨日菰釣山頂上に出会ったトレイルラン青年が言葉に惹起された厳しい登りの山「袖平山」へ向かう。東海自然歩道の東の最後の難関である。
 三角大屋根の建築美を誇るトイレ建物の前を通り、東へ舗装路を上がっていく。ヒュッテが下の方に見える高さまで上がると、東海自然歩道の標が谷へ下りるよう階段の道を示している。谷底の橋を渡ると、山腹を直登するまるで「シジフォスの神話」にでてくる山斜面もかくやあらんかと思われるような急登が始まった。足を停めると、下の下までずり落ちそうなのだ(おおげさかな?)。とにかく、ゆっくりでもよいから足を留めずに上へ足を交互におくり続けねばならぬ。きつい山腹直登は2時間余り続いた。あらかじめ覚悟をしていたので、気持ちはめげなかった。
  9:05 風巻の頭(1077m)着。
 一息つける尾根上の休憩場所だった。縦格子によって三方の外郭が構えられた洒落たデザインの洋風建築の四阿である。もちろん広場にはテーブル・ベンチも二組ある。泊まるにはもってこいの場所だった。神ノ川ヒュッテの宿泊をもし断られていれば、時間的には余裕をもってここへ登ってこられたのである。それにしてもと思う。ヒュッテに泊まったことは、自分にはけっして悪くはなかった。むしろ幸運だった。一期一会というもの、そういえば次はみんなを連れて車で再訪すると、酔った勢いで親父に約束をしてしまった。神ノ川ヒュッテのあたりが、はるか遠くの谷奥、トイレ建物の大屋根がそれと分かる点となって認められた。そこだけが、ぽっかりと明るかった。
 尾根道ではあるが、袖平山主峰が抜きんでて高いので途切れることのない急登の連続となり、トレイルラン青年の言うようたいした「きつさ」であった。とはいえ、菰釣山〜畦ヶ丸山国境稜線の方がよほど長くアップダウンが続いたので、自分にはどうにも袖平山の方がやさしく思えてしまうのだった。むしろ、一般の登山者にとってはこちらの山の方が与しやすいのではないかと考える。それは、袖平山を越え東側へ進んで、はっきり知れた。
 細い尾根上で対向の登山者に出会う。純朴な学究肌のような風貌をそなえた好青年で、天気が良くて絶好ですねえ、と笑顔を向けてくる。袖平山からの下山だという。そして、白つつじが咲いていたと、さかんに強調するのだった。白つつじは珍しい、それほど高くないこの山で観られるなんて不思議だなあとおっしゃる。なるほど、しばらく進むと梢に白い可憐な花弁が群れ咲いていた。白い小さな花が山奥に人知れず咲くのだから、妙に風雅であった。白無垢姿を、いったいだれを目当てに見せるつもりなのか?   

sirotutuzi"  白つつじ


 11:10 袖平山頂上(1432m)着。偽ピークを幾つも越えて、とうとう真の頂上にたどり着いた。登山者の幾人かがすでに広い頂上のあちこちにいて、くつろいでいた。富士山は雲に隠れていたが、南アルプスの北岳から塩見岳あたりの山並みは認められた。人が多いせいで希少価値が目減りしたのやら・・・感激は湧き起らなかった。     

sodehirayama          袖平山頂上標と愛用の杖


 袖平山から北へ下りすぐ東方向へ登りなおしていくと、少なからず人々の集う地へ来た。姫次という十字路だった。ここから南へ尾根道をたどっていくと丹沢主峰の蛭ヶ岳(1672m)や丹沢山へ至る。丹沢登山の北のポイント地点なのだろう。東海自然歩道の案内看板の前で、中年女性登山者の団体が、若い女性コンダクターの説明を受けていて、道をふさいでいた。
 そこからゆるい坂を登っていくと、東海自然歩道最高標高地点の標が立っていた。    

saikouten          最高標高地点(姫次)


 菰釣山国境尾根の山道と比べ、丹沢山の中心に近いせいもあり、このあたりは人気コースなのだろう。
 群衆から遠ざかるようにして、北東への山道を進む。幅のあるゆるい下りであり整えられた遊歩道のような道は、まさに稜線漫歩の快適トレイルだった。東海自然歩道全コースの中でもこの快適さは特筆に値するし人気のあるのも頷ける。関西の山には、これほど歩きの喜びを満喫できるそして安全な山道は、さあ、見かけないと思う。
 尾根道からすこし外れたところにあるこぶのような黍殻山頂上は割愛した。畑地のような小さな盆地が下に見え、畑の倉庫のようなプレハブ造りの避難小屋が見えた。まだ新しく、にわか造りの別荘小屋のような外観だった。
 トレランの若者が走っていく。長い距離を走り続けてきたのか、顔を苦しそうにゆがめて走っていた。背の高い青年が、短い挨拶もそこそこ歩みも軽やかに自分を追い抜いていく。
 13:15 焼山頂上(1060m)着。頂上といっても、下っていき着いたのだから、おかしな頂上到着であった。自分を軽く追い抜いて行った青年も、着いたばかりという風にザックをベンチに下ろして休むところだった。見張り塔のような展望台があった。青年は上がっていった。      

yakeyama           頂上での自撮り


 東海自然歩道最後の核心部は越えたと思った。あとは順当に高尾山ゴールを目指すだけである。それはさておき、明日夜の泊まり宿を手当てしなければならぬ。地点は相模湖である。調べておいた東海自然歩道の道筋に当たる宿へ電話をしてみると、一人客というので露骨に断られた。相模湖周辺の旅館はすべて申し合わせているので、十中八九一人客は無理だとのことであった。がっかりする、高尾山へは、こぎれいな身なりでゴールしたかったのである。前々からのこだわりだった。でも、今夜の宿は西野々亀見橋近く道志川畔のバカンス村と言う施設に予約を取ることができた。むろん、素泊まりであった。
 焼山から沢道を下っていくと西沢に下り、そこから川っぷちの林道を歩んでいくと、西野々の里に下りた。
 15:00 西野々の休憩所。町中の小さな公園の四阿といった感じ。
 ベンチに腰掛け、里の真っただ中に戻ったと言う安堵と、一抹の空漠感を味わう。
 人通りの少ない裏道を歩み国道413号線に合流する。国道を渡り、東海自然歩道道案内標のとおり谷へと寂しい林の道を下りていく。東海自然歩道の標が途切れ、道の真偽が不安になる。庭先でBQをしている民家が在ったので、家人のご主人にたずねてみると、バカンス村はこの道をずっと行った先だと言う。大きく蛇行して林の中を下っていくと、橋の袂にでた。亀見橋だった。バカンス村の看板も道筋に挙がっていた。橋を渡ってすぐ右へ折れ、道志川の畔を下っていくと、ごてごてした土建屋の倉庫のような施設入口があらわれる。急坂を下り施設の中へ入っていくと、どうやらバカンス村経営者の本業は土建屋であるらしく、建物陰にペイローダーやバックホーなどの重機が見えた。ごてごてした建物群のどこが入口なのか戸惑う。案内表記の矢印に副い、下の方へ行くと受付入口があった。男二人が居た。電話した者だと言うと、話は通じた。河原のバンガローもあるが、建物内の宿泊室に泊まることに話が落ち着いた。受付ロビーに酒類も置いてあったので、日本酒ワンカップ2本と缶ビールを買った。姫君以外なんでもあるよと、中年男たちが冷やかす。山を登り歩く旅なのでそれどころじゃないと、自分は言う。それでも領収書をだし、きちんと宿泊名簿を記入させる、まっとうな宿であった。
 棟続きの宿泊棟2階の部屋へと案内される。最近使われたのがいつのことだったのか疑わしくなるような、埃っぽい荒廃だ。ひと気のないロビー、洗面、トイレ、ぬるい湯しか出ない大浴場のシャワー、そして両側に各室の扉を連ねる尻細まりに伸びる長い廊下、まるでジャック・ニコルソン主演映画「シャイニング」の雪に閉じ込められた休営ホテルのようだ。夜中にさわがしい音がしても気にしないで下さいよ、ムササビが屋根を徘徊するのです、と案内の世話好きな中年の笑顔が言う。
 河原に面する窓から眺めると、暮れなずんで青っぽい光の中、釣り人の姿がひとり見えた。
  西丹沢のキャンプ場で求めたカップヌードルとカップ焼きそばを食し、ビールと酒を飲む。翌夕の宿を求めるべく、もう一つの調べておいた旅館に電話をしてみると、すんなり予約ができた。素泊まり専用のビジネスホテルだと 応対の老女性の声が言う。外食しても不自由しないほどたくさんの飲食店があるとも言う。
 夜半、やはり、人為的な大きな音がしばらく鳴った。はたして、ムササビなのだろうか?

  

5月2日
  4:30 起床
 6:30 受付の詰所に寝泊まりしていた人の好い中年男に挨拶をして、バンガロー村を出発。
  橋の袂へ上がる。東海自然歩道の道順のとおり、しばらく舗装路の坂道をたどり伏馬田と言う集落に着く。里から疎外されたような山ふところの村である。家々はしっかりと構えられてあった。村を出はずれるところで、北へとむかう山道に上がる。樹林に囲まれた長い登り路をたどっていくと、頂上の標に着いた。
 7:45 石砂山(ざれやま)頂上(577m)
 頂上には、早朝散歩らしいトレーニング恰好の初老男女が居た。観るものなく、そのまま北側へ下山する。
  8:25 篠原の里
 山の林道から、里の太い舗装路に合流する。生活の匂いのする里ではあるが、ひと気はない。山へと上がっていくさびしいところで、東へと分岐し急な坂を登る。そのまま山道になった。尾根伝いに急な登りが始まる。短いが、きつい山登りとなった。  
10:45 石老山頂上(695m)   

sekirouyama 石老山頂上   

  
樹林の多い公園のような頂上にはおおぜいの人々が居た。老若男女さまざま、目を引くのは、中学生らしき若い男女の人数であり時折挙がる歓声であった。しかし周りの山を愛する登山者の人たちは、それぞれの登頂の喜びを味わっているのだった。
 ベンチの片隅が空いていたので腰掛、時刻は早いが、ここで昼食にした。といっても、口に入れるものと言えば、ミニバウムクーヘン2切れ、チーズ小片、干し葡萄一掴み、だった。バウムクーヘンもチーズも、これで無くなった。乾パンもすでに無くなっていた。口にできるものはそば粉以外無くなった。

 鼠坂(ねんざか)へと、下山する。学校の体育服を着た子供たちと同じ方向になった。下から登ってくる子もいるので、道のところどころで滞留し混乱する。元気にはしゃぐ子もいれば、山登りの嫌そうな子もいる。総体に、けっしてお行儀が良いとは言えない生徒たちである。
 道は、ところどころ岩が露出しており、水に濡れていた。不覚にも一度滑って転んだ。腰を打ち、左人差し指爪を傷つけて出血した。
 顕鏡寺まで下りると、境内に学校名の横断幕がかかっていた。子供たち、教師の面々が集まっていた。中学生でなく高校生だと、この時知った。
 林道を下っていくと、里道に出たが、いかにも東海自然歩道らしいひと気から取り残されたような廃れ路だった。しかし、こんな道が自分の好みだ。滑って転んだとき傷つけた左手人差し指爪から血が滴っていたので、消毒薬を塗り、サージテープを巻く。山から離れ、道の両側に民家が多くなってくる。しまいに、住宅街の小路となる。鼠坂(ねんざか)であった。
 勢いのまま進んでいくと、大きな国道に直面した。道志川沿いに通る413号線だった。東海自然歩道の標は、辺りになかった。どこかで、自然歩道への分かれ道を見過ごしたらしい。国道の向かい側に、車の出入りする大きな入口ゲートがある。さがみ湖リゾートトレジャーフォレストと、ゲート上に大きく表示されていた。入口をのぞいてみるが、まるで場違いである。国道のバス停にもどりひとにたずねてみると、嵐山登山口が国道沿い西にすこし行くとあると言う。行ってみると、陸橋の下にその標があり階段があった。
 やれやれと、丘上を登っていくと大きな病院裏手の駐車場に出てしまった。また間違えたようだ。戻る。丘の頂上に、さらに分岐する小さな道があった。リゾートトレジャーファレストの外縁を伝う細い山道だった。上がったり下ったりと沢のじめついた小径を進む。時折、遊園地から笑いさざめきが聞こえる。道のりは遠く感じられた。曲がり廻った末、尾根道になる。何組かのハイカーと出会い、それぞれに挨拶を交わす。おしなべて礼儀正しいひとたちばかりだった。
 14:45 嵐山頂上(405m)着。木立に囲まれた広い頂上だった。ハイカーや登山姿のひとたちが少なからず居た。相模湖を真下に眺め下ろす、他を抜きんでるような独立の高みなので人気があるのだろう。ひとびとはいつまでも、頂上の午後のひと時を憩っているのだった。    

arasiyama            嵐山から相模湖

 
 標高405mの低い山ながら、湖への下山路は急な険しさだった。その急坂を駆け足でおりる4人の老女と一人の老いた男が自分を追い抜いて行った。老人たちのトレイルランなのだろう。老いを凌駕するそのひたむきさに敬服する。
 15:20 湖畔の舗装路に下りる。東海自然歩道コースの弁天橋は右へと標が差しているが、左へ行き、相模湖ダムの上を渡る。対岸に出ると、トレイルランの老人たちが前を歩いていた。車道と合流する手前で、彼らは急な階段を上がっていく。たぶん駅へ向かうのだろうと見当をつけ、後をついていった。階段を上がり切ると広い坂道に出た。彼らは右へと、大きく湾曲する道を上へ上がっていくので、自分もしたがう。道の途中に、予約しておいた宿「もみじ屋旅館」のこじんまりした木造2階建てがあらわれる。時刻がまだ早いので、通り過ぎ駅へ行く。にぎやかな駅前通りにあった大きな土産物店を兼ねた酒屋に入り、地酒ワンカップと缶ビールを買い、店外のベンチに腰掛けてビールを飲んだ。しばらくぼーっとした。駅の構えからすると、大きな観光町らしい。春夏秋冬時期を選ばず観光客が集まるのだろう。人々の行き来からその殷賑ぶりがうかがい知れる。観光らしい若い男女が店から出てくるとベンチの片方に腰を下ろし、求めたばかりの瓶入り地ビールをふたりして飲みだした。男性が、おいしいと言って地ビールに舌鼓を打ち、女性の方は相槌を打つのだった。相模湖駅頭のおだやかな午後の時間が、ほほえましく流れていた。
 16:30 もみじ屋旅館投宿。女将は年老いているが、客あしらいに馴れているのか人当たりが良い。老舗旅館と言った趣であるが、いんかせん建物が老朽していて当世の観光宿としては客足を惹き得ないようだ。だから素泊まりの和風ビジネスホテルとして、つましく稼業を続けているのだろうか。2階の六畳間に通され一息ついた。風呂に入った後外出し、湖畔のガストでステーキとワインを食し、東海自然歩道歩き完遂前夜祭の運びとなった。

  

2016年 5月3日
 4:35 起床。前夜コンビニで買ったおいたサンドイッチとインスタントコーヒーで簡単な朝食を摂る。玄関口で女将に挨拶をすると、高尾山まで歩いて行かれるのですか?と女将が怪訝な風に問うので少々妙な感がし、ほかに行きようがあるのかと逆に問い返すと、たいていは相模湖駅から中央線に乗り高尾駅で乗り換え高尾山口まで行かれるのですよ、と言う。一般生活人と山歩き人との立場が異なるので、端から思い込みの相違があったのだ。今日は連休真っただ中なので、高尾山はたいへんな人出でしょう、下山するのに人がごったがえしてなかなか思うように歩けないですよ、蛇滝道なら比較的空いていると思います、と女将は言う。
 6:00 宿出発。
 元の湖畔の道へ戻り、東海自然歩道の道筋に復帰。
 町はずれのひと気のない道をたどっていくと、昨日石老山に集団登山行事をしていた高等学校があった。
 川面へと狭い森の急坂を下っていく。
 6:30 弁天橋を渡る。
 渡り終えた袂の林の中の空き地に朽ちたバンガローがある、早朝の空気の中に猫が7匹ほど寝そべっており、こちらを不審げにチェックする。廃家と七匹の猫は少々目を引く光景だった。
 橋付近のさびしい林をぬけると、バス通りの町筋に合流した。千木良と謂う地名だった。車両は多い。道を渡り山の方へ畑地の中を進んでいき少し上がると、富士見の桜という名物の老木があった。傍らに茶店があり、早朝なのでまだ開けていなかった。
  6:50 この地点が城山しいては高尾山への登山口であった。石段を登りつめると、幅広の山道が始まった。良く整備された安全な道である。急勾配の登りも部分的にあらわれる。あわてず落ち着いて一歩一歩を確かめるように足を運ぶ。ここで踝を挫いたりアキレス腱を断裂させては、これまでの旅の来し方がすべておしゃかになるのだ。登るにつれ、行きかう人の姿をちらほら目にするようになる。
 8:45 城山(小仏城山)頂上(670m)着 
 丘陵のいただきの様なひろい頂上広場に、イス・テーブルがところ狭しと置かれ、真ん中に戸口を解放した広い茶店が、授業員の立ち働く基で営業をしていた。淹れたてのドリップコーヒーの香りがしたので、クリームパンとともに求め、未だ咲き残っている山桜の高い梢の下で、贅沢なコーヒーブレイクを楽しむ。ちらほらと人が楽しそうに行きかう。これまでの東海自然歩道は概ね寂しいひと気のない道が多く、こういう同好の士が集うにぎやかな場はめったになかった。気分は華やかに半ば浮かれていた。
 高尾山よりこの城山の方が、標高は70mほど高いので、道は下り傾斜の遊歩道になった。北の小仏峠からやってきた登山者も交わるので、ひと数が急に増えてくる。いわゆる安全な山道なので、とりわけ東京都民の人気を博しているのだろう。桟道や休みどころが随所にあらわれる。過去十年間の東海自然歩道歩きの来し方をふりかえりながら、のんびり歩を進める。
  一丁平という園地に着いた。ソーラー電源の立派な水洗トイレもあり四阿も3棟備えられていて、ひろびろした丘陵をとりこむ自然公園だった。この場所で一日を過ごすのか、人が多く憩い、散策をしていた。空は青空、空気は新緑の匂いを含んで清新さの中に駘蕩の気をただよわす。  

zidori 一丁平にて自撮り   

    一丁平を過ぎて先へ進んでいくと、少し上がり坂になり、もみじ平に着いた。茶店が二軒ある。ここもにぎわっていた。あちこち車座になって豪快に生ビールジョッキを傾ける人々の姿。茶店の前のベンチに腰掛け、憩う。真正面に山並みが見える。登ってきた丹沢の袖平山あたりかと思いをめぐらせ、しばし感慨にふける。隣に外人のスキンヘッドの中年男性が同じように腰かけている。彼も山を観ていた。日本語が話せないのか、終始無言だった。登ってきた山を語りたかった。
 いよいよ高尾山頂上に近くなったと思うあたり、頂上への道が幾通りも分かれていて迷うが、正当の1号路を選ぶ。道は急な石段の登りになった。登りつめると、都心の歩行者天国が山に現出したかのような広場に出た。人が密集して、右往左往てんでばらばらにうごめきまわっていた。様々な装いの人々である。登山姿、軽いハイキング姿、ドライブ客のような着飾った男女、家族連れ、アベック。ひと声もさまざまに飛び交う。人波の隙間をかいくぐり、とにかく広場の奥へと向かう。高尾山頂上標識の前に出た。標識を入れて我が姿の自撮り写真を撮りたかったが、ひきも切らず人々が記念撮影をするので、とてもそのわがままは無理だった。愛用の杖を立てかけて写すに留めた。
2016年 5月3日 10:00 高尾山頂上(599m)着。  

takaoyama 高尾山頂上   

 東海自然歩道を歩き始めたのは、2006年4月9日、なごりの桜が花吹雪となって一期の華を繚乱する頃であった。今日のゴールまで10年という歳月が横たわっている。ほんの気まぐれから始めた東海自然歩道歩きであったが、歩くほどにいつしか病膏肓に入ってしまい、行住坐臥常に次の道程を図るという日々は生活そのものと等価になってしまったものだ。その日々を振り返ると、大小さまざまに出来した別の思い出に付加され、一片の哀しみとほろ苦さがよみがえる。
 ゴールした今、不思議と感動は薄い。群衆の充ちる小高いピークをあっけなく登ってしまったという気分だった。
 東海自然歩道歩きのあそびは終わった。次はどんなあそびを創ろうか?そのことをあれこれ想いめぐらすのも、あそびになる。
 頂上付近に営業している飲食店の一軒に入り、山芋蕎麦と生ビールを食し、記念の自分へのねぎらいとした。
 人波に流されるまま、薬王院・仏舎利塔と進み、「もみじ屋」宿の女将が知恵の蛇滝コースを下山する。やはり人は少なく、ストレスなしに谷筋を下山する。下りきると川筋に出た。つつじの咲く川沿いの野道をたどった。東海自然歩道から外れているので、勝手に判断して道筋を選んだ。野道から舗装路に合流し、駅へとより繁華な方へ進むとJR高架をくぐる地点に来る。そこから地元のおばさんに教わった細い裏道を連れだって歩んでいくと
 12:20 JR高尾駅に着いた。
八王子で乗り換え新横浜へ、そして新幹線で大阪へ大戻りをする。東海自然歩道の西の起点、箕面の自宅に帰り着いたのは、夜の6時過ぎであった。(10年と1679qという時空間の懸隔が、最新の交通機関に乗ればわずか半日余りに短絡されてしまった。まいった)

 東海自然歩道全体を通じての印象として、箕面を出発して大阪、京都、滋賀、奈良、三重の近畿圏を歩き初めた頃が、未知の旅への新鮮な高揚感がめざめたこともあり、路傍の花草木、山や川、空の形や色、訪れた寺社、人々などなど見るもの聞くもの全てに素朴な感動を覚えて一等楽しかったと、いちいちが今だに鮮明に蘇えります。もちろんそこから以降の東方各異郷においてもそれぞれに特筆しうる喜びのあったことも、忘れられない想い出でとなっています。
 旅というのは、ある種ひとつの教育の場であるかもしれません。旅の緒から完遂までのこの10年、わたし自身の内にある「狷介」という悪性分も幾分かは矯められたのではないかとささやかに自負しておりますが、はてさて如何なるものやらん。。