東海自然歩道-酔いどれ天使の気まま旅

東海自然歩道-酔いどれ天使の気まま旅


2010年4月28日から5月3日まで:田口の町から秋葉山を経て家山駅。

2010年
4月28日
  この頃は定年後に再就職した大手の不動産・建築会社の契約が切れたので、失業中であった。だから、時間的にはハローワークへの月2回の定期的な就職斡旋依頼の手続きをする以外、余裕があった。
  6:33 豊川住宅前バス出発
  7:27 新大阪出発(のぞみ)
  9:08 豊橋発(飯田線)
  10:12 本長篠着
  11:00 同バス発(豊鉄バス)
  12:00 田口着復帰
  12:10 福田寺。臨済宗妙心寺の末寺である。しだれ桜で名がとおる。天気良し。少なくとも空に降る予兆はない。福田寺境内への長い石階段を上り、境内裏から山道へ入る。曲がりくねりながら山道をたどり舗装路に上がり林道を登ったりしていくと、小松口のバス停にでた。そこから山道を下るとまた林道に出合い少したどってまた山道へと分岐する。急登を登りつめ山裾を巻くようにして進むと、池葉の守護神社に行き当たる。ここは大杉が名物である。ここに東海自然歩道の標識があって、東京まで400qの地点だと記されていた。箕面から1297q、歩を進めたわけだった。山道の急坂を下っていくと畑地に囲まれた和市の登山口に着いた。ここから十三曲がりと謂われる急な登りとなる。途中の大神田への分岐が堤石峠だった。このあたりは東海自然歩道の三大難所と称されているよう岩稜が山道にむきだされているところである。が、岩登りばかりに青春をおくってきたおかげで、自分には与しやすいコースであった。急な登りだったが距離は遠くなくあっけなく頂上に達した。
 16:30 岩古谷山頂上(799m)頂上は狭いながらも平坦地があり、テーブル・ベンチもあり、小さな祠もある。幕営することにした。さいわい水も十分ある。周りの山々が夕照の下に徐々に色映えを変化させ沈んでいく様は、荘厳である。山の鳥や動物たちもこの暮れなずむあわいの映りゆきをながめているのだろう。自分の好きな一刻である。時折、何かの合図を送るかのような鳥の甲高い声が鳴き渡る。

 

iwakodaniyama           岩古谷山頂上

4月29日 空に明るさがみなぎっていたが、やや雲が多い。
  明け方、小雨が降ったらしくテントが濡れていた。
  5:20 起床。夜の闇から浮かび上がる樹々のおぼろな輪郭や遠くの峰がこの日最初の陽を受けて肌を染めていく。この微妙な景観も、一興に値する。
  6:20 岩古谷山頂上出発。
  8:20 御殿岩。ここから弱い雨が降りだした。レインハットを被る。「びわぼく峠」という四つの山道が交差する標高707.7mの地点を越える。そこから南西方向へアップダウンを繰り返していくと、鞍掛山へいざなわれた。
  10:00 鞍掛山頂上(882m) 小雨はこのあたりで止んだ。
  11:20 かしゃげ峠(888m)「馬頭観世音菩薩」の石碑がある。里への下り口。
  11:55 四谷千枚田。幾人かの観光者が見物していた。 山に挟まれた丘陵の斜面を利用して作られた水田であるが、上から眺めると、うろこ状の幾何学模様を描いている。それが珍奇だと人気を呼んでいるらしい。困難な自然環境の中で生命の糧を生産する必要から克己して耕した田畑の露わな表徴が美観の対象になるという、現代風潮の気ままな態度を示している。雨あがりの温気に棚田の空気は白濁しており、陽をこもらせて白熱灯のような暑気を放っていた。その地から舗装路をたどってほどなく、仏坂峠(622m)に着いた。真下を仏坂トンネルが交差している。ここから山道を登り、宇連山を目指す。このまま行けば山中の野営は必然である。沢筋から尾根へと上がるところに「ここが最後の水場」と看板表示のある渓流の出合いに着いた。そこへ、大きな白い犬を連れた若いアベックが下りてきた。このあたりに宿泊施設を存じないかとか、山はさびしくて気に染まない、だからこうして下りてきた、とか何とか、気易げに話しかけてくるのでこちらも親しく応じた。水を汲み終えて、登っていく自分の姿を二人で物珍し気に見物するのだった。「お気をつけて!」の声を背に受けながら急斜面の岩場を登っていく。斜面を段々に整地したところのやや平らかな地に着いた。標高838mP〜788mPの中間地点らしい。テーブル・ベンチのある休憩ポイントだった。老勢峠手前である。時刻の記録はとっていなかった。日が相当に陰ったので、たぶん15:00頃だったような。この地点で幕営をした。時間に余裕があったので、小枝を削って箸を作った。失業者の開き直った贅沢さである。チャップリンの映画「モダンタイムズ」の雰囲気に副っているような。風は冷えてきた。蒼みを深めていく空の下、つかの間輪郭を浮かび上がらせた山々の影絵が、残照へとすがるように空へ未練を残す景観は、いつまでも見飽きない一幅の絵画であった。

4月30日。冷え切った空気が凛と張りつめる、爽快な朝だった。
  5:00起床、夜中に猫の鳴き声に似た音色が、テントの傍に聞こえた。明け方、たぶん猿らしい野獣の争うらしい叫びが、鳴り響いた。そのにぎわしい野獣たちの生態に気がなごんだ。
  6:30 テント撤収・出発
 6:35 老勢峠(788m)。幕営地から幾らも登らないうちに着いた。樹林帯の斜面のすこし平らかになった地点。ゆるやかな山腹の径をたどっていくと宇連山に着いた。
 8:10 宇連山頂上(929,7m)登りがいのある山であったと、印象が残っている。眺望が開けて、雲が目線の高さに浮かんでいた。
  尾根道から南西へ下る沢筋の道へと、道標の充実した迷いようのない道を下っていく。谷が開けてくる。連休中でもあり、老若男女の登山愛好者たちに出あう。棚山高原のキャンプ場へと下りていく。
  10:00 棚山高原
  前から来た50代の夫婦に、宇連山への道を尋ねられた。標をたよりに登って行ったら、また元のここまで戻ってしまったとのこと。自分の歩んできた東海自然歩道を説明するが、逆方向なのでうまく伝わったかどうか心許ない。登山帽の学者風の青年は、広場のあらぬ方へきままに歩き回る。道端の四阿では20代の青年二人が地図と格闘しながら、煙草の煙を吐き散らしていた。春のうららかな陽の下に、様々な人々が様々に高原の春を楽しんでいるのだった。
  高原のにぎわいから離れて南東の向きに進むと、ひとかげも途絶えた急勾配の山道となる。ところどころ岩稜のむきでた険しい登りである。
  11:15 玖老勢峠(413m)
  果てしない岩稜の登りはさらに続いた。岩の上に足をおいて登ることに妙な安心感があり、身の丈に合っているらしく楽に登れる。
  13:10 鳳来寺山頂上(695m)。岩稜の尾根を伝って、上り下りしていくと達した。頂上は無論、山全体が国の名勝・天然記念物に指定されています。
  14:00 鳳来寺本堂、正式には蓬来山東照宮です。真言宗。東照宮の名のとおり、江戸時代、徳川家の庇護を受けおおいに栄えた。仏法僧(鳥名:コハズク)という鳥で有名です。仁王門は国指定の重要文化財。
  14:50 行者越え。寺の裏側から登る。せっかく鳳来寺山を下りてきたのに、また登るのかとうんざりする。急ではあるが長く続かなかった。沢通しの下りになった。
  15:40 三河大野JR踏切。長い下降路を歩んでようやく大きな里に下りた。家が建て込んでくる。JR駅もあるこのあたりでは中心的な町である。旅館も、スーパーも料理屋もあると、前もって調べておいた。個人経営の小さなスーパーで卵とトマトを買い求める。酒屋では5合パックの日本酒を買った。目当ての旅館は、予約客以外は泊められないととりつく島もなく断られた。携帯電話の残り電力が乏しいので、充電しようとあてにしていたから少々落胆した。料理屋はゆっくり料理と酒を楽しむ風な店なので、風采の冴えない自分には論外であった。総じて良い印象をもてない町ではあった。
  先へ進むことにした。睦平への坂道の途中に小学校があったので入っていき、洗い場の蛇口から水を補給した。林道を上っていくと、山へかかる川のほとりの樹々の間に空き地があった。私有地らしいありさまなので、道斜め向かいの大きな民家を尋ね幕営の承諾を求めたら、あっさり了解してくれた。この家の土地かどうかはっきりしなかったが、玄関に出た婦人は鷹揚に応じてくれた。
  17:20 幕営
 6個の卵をいっぺんに茹でた。茹で卵とトマトありの豪華な夕食になった。

5月1日
  4:40 起床。ほの明るい木立の上に青空がのぞいていた。
  6:10 テント撤収・出発
  8:10 阿寺の滝。幕営地からすぐ山道に分け入り鉛山峠を経、阿寺の七滝に着いた。駐車場があり、森の中の遊歩道を観光の人々が見物歩きをしていた。滝は7つあるが、すべて見物するには一めぐりをするので、二つ三つを観て他は割愛した。歩きやすい林道を下っていくと、見通しの利く里にでた。
  9:20 巣山のバス停。傍らに自販機があったので飲料を飲んだ。里の自動車道を東へと歩む。川畔に続く牧歌然とした里道である。
  10:10 夏明橋 だらだら歩いて小さな橋のたもとに着いた。小休憩。橋を渡った分岐点を左へ行く。
  11:05 県境。愛知県と静岡県の境である。このあたり、林道は複雑に分岐し、折れ曲がる。橋を渡った川向うの県境標識が太陽と辺りの風景に溶け込み、人間臭い行政上の区分などとは無縁の一種味わいのある情感を描いていた。
  13:00 寺平。山あいの集落。ところどころ舗装路の道脇に水が湧きだしていた。
  13:15 くんまの里着。正式には熊という里町であった。水車小屋が目を引き付ける。
  道の駅になっており、ドライブやツーリング観光者が大勢集まっている。店の主婦然としたおばさんに頼んで外部コンセントから携帯電話に充電させてもらう。お礼がてらかけ蕎麦を食べた。が、携帯電話を収容する段になってコンセントの抜けていたことを発見した。外部コンセントなので、うまく差し込めず接続できていなかったとは、とほ。電柱に旅館の看板を見たので電話をしてみたが、やはり体よく断られた。道の駅ではいろいろ地元産の野菜などを販売しているのを、クレソンが安かったので買い求めた。野菜不足を補おうとの魂胆であるが、量は食べきれないほど多い。
  里のはずれの民家の裏口洗い場に、外部コンセントを見かけたので、玄関を訪い、事情を話して携帯電話への充電を頼んでみる。若奥さんらしい快活な美女は、案外と愛想よく屋内のコンセントに接続してくださった。狭い道向かいに在る古びた縁台に腰を下ろし、英語熟語集などを読みながら40分ほど大休止をとった。充電は100パーセントではなかったが、当座の用には足りそうだった。若奥さんには東海自然歩道の旅びとが珍しかったかもしれない、奇特なひともあったものだ。多謝
 狭い林道といった感じの里道を東へ歩んだ。目の届く限りいっぱいに茶畑の高低にひろがっているのが視界を埋める。
  16:20 柴休憩所着。開けた里であり、近くにヒロシラ遺跡がある。道端の一画に自然歩道者用の四阿休憩所があった。幕営地にする。すぐ目の前の丘で茶畑の手入れをするらしい草刈機のような音がせわしく響き渡っていた。四阿の木製卓の奥にテントひと張り分のスペースがあったのでちょうど良い。
 幕営の支度をしていると、通りかかる近所のひとが立ち寄り話しかけてくる。大きなセントバーナードのような犬を散歩させるエキゾチックな服装を身に着けた一家の主人風の男性。紳士らしい物言いで、旅の模様を尋ねる。わたしの説明いちいちに大仰に感嘆しておられた。次に道のすぐ上に家があるという老婦人が、しばらく立ち尽くして話しこみ、土地の自慢なども披露してくれた。ヒロシラ遺跡あたりはちょっとした公園になっていて、公衆トイレもあるという。地元民が当番で掃除しているのだと、言外に誇りをほのめかせて語っていた。要するに、私の人物の人畜無害なるかの判別であったかと、穿ってみるのだった。
  道は車がほとんど通らない。安心のできる快適な夜を過ごすことができた。

  

siba       柴休憩所のトイレ

sirohira   ヒロシラ遺跡

5月2日
  4:50 起床。今朝も空は晴れ渡っている。道向かいのヒロシラ遺跡に行き、見物がてら立派なログキャビン風建物のトイレで朝いちばんの用を足す。ヒロシラ遺跡は縄文時代なのか竪穴式の古代住居跡が三つ再現されていた。あまり知れ渡っていないようだ。
 6:10 テント撤収・出発
 7:15〜7:45 石打休憩所。道から一段上がった茶畑の傍に在る。古くはあるが規模は大きく、泊まるにも十分な広さがある。ここの方がよかったかと、かすかに悔やむ。
  車のほとんど通わない、自然歩道専用のような気持ちの良い谷沿いの道である。
  8:15 市の瀬。自然歩道の案内板と立派なトイレがある。道は舗装された車道へ合流した。谷川の水量が多くなってくる。
  9:00 西川の町。町の裏通りのようなところを進む。食料品店があるとの下調べをもとに気を付けてみるが、それらしき店は閉じていた。先へ歩いていくと、広場を挟んだ奥の民家から男が大声に呼びかけてくる。東海自然歩道を旅していると挨拶をおくる。男の親切心と見知らぬ人間への関心と、気分のおおらかさが伝わってくる。
 9:10 秋葉ダムを渡る。
  ダムを渡ると川面から離れるようにして高みへと道は九十九折に登っていく。勾配は強い。林道になり、そして山道のはてしない登りになった。山腹の九十九折の道を尾根へと杉木立の中を単調に登る。周りの景観に変化がなく、登るのにいい加減飽きがくる。
  尾根上の車道に出たかと思うとまた山道に分け入る。何度も車道を横切る。
  13:20 秋葉山頂上? 正式には秋葉山本宮秋葉神社。709年創建。神仏の混淆した秋葉大権現として中世から江戸時代にかけて興隆し、今に至る。現在、曹洞宗の秋葉寺は中腹の杉平に移っている。構えの大きなコンクリート製の鳥居をくぐり、境内の石段を大勢の参拝客に混じって上がっていく。神社休憩所がある。秋葉山の頂上が判然としなかった。頂上付近はすべて神社施設に埋もれているのだ。たいそうに栄えている山であるらしくおおぜいの参拝客が詰め寄せていた。外国人もなん人か、石段をあえぎながら上っていた。登りがいのない山だといえる。
 休憩所あたりのレストランでカレーライスと生ビールを摂った。
  下山は坂下方面の東へと路をとる。下る途中、石畳の坂で老人がへたり込んでいたので、様子を尋ねると足をくじいたのではなく、めまいがしたのだと言う。無理をなさらずにと労わると、本当にふがいなくて情けないと嘆かれる。まだ大丈夫だとみて別れる。
  15:10 坂下休憩所。ながい果てしなく思われる下山路を下りきったところに四阿があった。すこし休んだ。そこを発つ時、ちょうど登山の若者一人が下りてきた。
 川筋の辺鄙な道を進んでいくと、釣り客相手に釣り券を商う小さな店があったのでのぞくと、わずかな商品の中にワンカップ酒があったので2本求めた。ついてきた登山の若者はその隙に先へ追い越していった。人見知りをする人間らしく、一言も挨拶を交わさずじまいだった。
 犬居橋を渡る。川に沿って原公園という大きな園地が広がっていたので、ここに腰をおろし宿探しの電話をする。民宿「しばらく」が受け入れてくれた。ただし、夕食なし、また夕方は夫婦ふたりとも弔事のため家を空けるため、宿に着いたら電話してくれと携帯電話番号を教えられる。
 ここから犬居城の丘に上って見物をするのが本来の東海自然歩道であるが、秋葉山登りで疲れたのと、民宿へ早く落ち着きたいので、割愛した。分かりやすい民家の密集した道を進み、国道へ出てからは川っぷちをひたすら歩いた。
  16:50 民宿「しばらく」 若見橋の袂を左に折れる。河畔の道から見える看板には「暫」となっていた。夕食は、隣のレストランで洋定食とビールを摂った。ここの民宿は印象が良かった。主人夫婦は親切で愛想が良い、全自動洗濯機と洗剤があったので着汚れた衣類も洗って乾した。ようやく携帯電話に充分な電力を蓄えることができた。
 朝ごはんの手料理もたいへんに豪華だったと記憶している。屋号の「しばらく」は歌舞伎からとったのですか?とさりげなく尋ねてみると、歌舞伎ファンの友人から名を譲ってもらったという。

5月3日
  5:00 起床
  6:45 ゆっくり出発。快晴。若身橋へ戻る。
  7:00 若身橋
  東海自然歩道の標を確認したうえで、支川に沿って東へと歩む。東海自然歩道コースは途中から茶畑の間へと分岐し、狭くなり北寄りに上っていく。

singuuike  8:45 新宮池。
      樹林に覆われた山路を登り切った上に、この名の公園と池とトイレ小屋があった。静かな趣をたたえた池畔である。岸に寄ると鯉が集まり、水しぶきを跳ね上げる。この時若い男女3人組があがってきた。グラサンの女がリーダー格かと察せられた。仲が良い。同級生か、いとこ同士の集まりなのか、それにしても若い。挨拶を交わし彼らより先に出発する。
  10:20 大時休憩所 この手前で彼ら3人組に追いつかれた。しばらくは同行して、東海自然歩道の話もまじえて会話を交わす。旅の現状とかを説明したりする。秋葉山の登りがつまらないことはもっともで地元でも不評だと言う。
 「あ!カモシカ」グラサン女の喚声。すぐそばの高みから、汚い斑肌の大きなカモシカが我々を見おろしていた。やがて我々に見飽きたのか、ゆっくり上へ移動していった。若い女とかもしかと素っ頓狂な叫び声の一場面が旅の挿絵として残る。
  3人組が休憩すると言って足を留めたので林道を先へ歩むと、向かいから60歳前後のザックを背にしたおじさん旅人と出会う。顔を輝かせて寄ってくる。「東海自然歩道ですか?」と先に尋ねられた。答えると「いやあ、東海自然歩道を旅する人と出会ったのは初めてですよ」と大仰に感激しておられる。自分も東京を発って西の箕面を目指しているのだと、熱く語るのだ。今回は家山を発って、昨夜は金剛院の宿坊に泊まったのだと、いろいろ話していかれた。そういう宿泊施設をあてこんで続ける旅もあったのかと、考えてみるのだった。荷を格段に軽くできるのが、たいへんに魅力だ。この考えは後年に尾を引いた。
  春埜山への登りが始まる。山容は雄大だ。はじめは林道を上ったが、林道とつかずはなれず山径をたどる。ここも杉樹林帯の中の九十九折り道であった。休んでいると、下の方から若者3人組の声が聞こえる。当方は重荷なのですぐ追いつかれるだろうと待ってみるが、そのうち声は聞こえなくなる。
  11:40 春埜山(はるのさん)(872m) 大光寺、大きな寺院である。曹洞宗、神仏混淆の修験の山。大光寺の開山は行基菩薩が山頂に庵を開いたのが始まりとされている。門前の休憩用園地にテーブルとベンチがあった。3人連れのおじさん登山者が弁当を使っておられた。自分も民宿で作ってもらった弁当をひろげる。久しぶりのおにぎりは美味だった。弁当を食しているとくだんの3人組の若者が遅れて上がってきて、境内の奥へと入っていった。さては奥に頂上標があるのかと察したが、ピークハントの趣味はないのでついてはいかなかった。
  12:25 春埜山から林道を下り、沢筋へと分岐すると急な登りとなり意外に長く続いた。奥の院という小さな祠が目についた。鳥居沢らしき先は林道工事中なので、また山道にはいり、南へ下る。通りかかった軽トラックの中年男女に道を教わったのだった。派手な化粧をした女は、軽トラの窓越しにお気をつけてね、と言った。どうやら中年男女が軽トラックでのドライブデートを楽しんでいるようだった。
 13:50 平松峠休憩所 ここまで来れば今日中に家山へたどり着けると少し安堵する。急な山道も終わりそうだった。
  さらに整った山道を南へと下って行きひとつの林道を横切ると、車やバイクも通える林道に合流した。標に従って進む。
  14:10 大日山金剛院。行基菩薩作の大日如来を本尊として開創。山門は天保8年の築造と謂われる。案内表示の看板があったので、あとは楽な参道をたどればよいと軽く見たら、案外と道のりは遠く、坂はきつかった。

kongouin     山の中を歩んできて、忽然とこのような立派な山門があらわれたので、しばし見とれる。

  ここから石畳の参道になったが、上りはなおも続く。なぜなのか、石畳の上がり坂はきつく感じる。
  寺院の裏手へ廻りこむように道の標があったので進むと、最近造成したばかりのような真新しい砕石敷の林道に入った。半信半疑にしばらく進むと、沢へと下りる細い山径に分岐した。長い山腹を下ると、歩きやすい林道になった。
  15:20 市井平集落。周りの斜面を茶畑が埋めている。男たち3人がなにやら談論しているので、目を合わせて先に挨拶し道を確認する。気さくに応じる男たち。
  村の狭い舗装路を谷へと下る。ほどなく谷沿いの林道に合流した。はるか下に急流が見える深い谷である。谷道を、山襞をなぞるように曲がりくねりながら延々と下る。舗装路なので単調であり、足が疲れる。谷の急流は徐々に道へと迫ってき、岩を食む流れが荒々しくなっててくる。
  家山川との合流点橋袂に着いた。ちょうど自然歩道の休憩所がある。東海自然歩道道案内の標識を観ると、コースである野守池を目指していくと家山へは残り70分とある。今時刻は16:00、なるべく早く日の落ちない前に家山の駅へ着いて、帰阪したいという思いがある。思案の果て、野守池をパスしこのまま幹線道路を下ることにした。結果的には野守池を経由しても大して距離は変わらなかったようだ。車両の多い危ない道だった。歩車道の区切りが無いのだ。川沿いを下るにつれ、下り勾配が緩くなり川幅はひろくなっていく。家並みがあらわれ、ボート桟橋やバンガローが対岸に望めた。家山川と大井川の合流する地点で国道に直交する。国道を渡り、大井川鉄道と並列する町の裏通りを歩いていくと、蒸気機関車がちょうど発車していった。カメラを構えたマニアの人たちがそれぞれの位置に構えてシャッターを切った。
  16:55 家山駅(大井川鉄道)大井川の畔、駿遠橋という交通の要衝に開けた山あいの古い町だった。
  八百屋のおやじみたいな気さくな駅長さんは、今発車したばかりで次は17:57発だと言う。時間があるのでゆっくり食事することにし、駅長さんの勧めで駅から5分の寿司屋へ行った。ザックは駅長さんが看ていてやると言う。
2010.17:57 家山発(大井川鉄道)離脱
  18:22〜18:43 金谷駅乗り換え、新幹線で帰阪。今回は、遠州から駿河の大井川に達することができた。愛知県奥三河田口から静岡県家山への1週間ばかりの旅は思い出深い道のりとなった。一つは景観の規模が今までの手を広げれば届くような内庭的なひろがりでなく人為の手をはるかに超えた無辺の奥行と異郷色を見せていたこと、二つは、他人とは没交渉の自分としては珍しく多くのひととの触れ合いがあったこと、等々があったからなのかと思う。特に静岡という異土の人との接触に新鮮味を感じたからかもしれない。