東海自然歩道-酔いどれ天使の気まま旅

東海自然歩道-酔いどれ天使の気まま旅


2009年5月2日から10月12日まで:恵那路。寧比曾岳を経て田口の町。  

2009年 5月2日 恵那路
 今回は恵那ルートをたどって奥三河寧比曾岳をめざす。
  5:42 自宅最寄りの「豊川住宅前」バス停を出発。
  8:32〜9:00 名鉄犬山遊園駅復帰。この地の長年の友人と落合う。旧交を温めがてら一緒に連れだって出発する。地理に明るい友人の案内で、継鹿尾の山地へ入る。若かりし頃、自分も犬山に住んでいたのでこのあたりは休みの日よく自転車できたものだった。歳月の空隙は地理的な記憶をかすれさせていた。継鹿尾の山地を抜けると西帷子の里に下りた。そこからは、森を通ったり川筋をたどったり見渡す限りの畑地の中のあぜ道のような道を進んだりした。だらだらと、友人とおしゃべりをしながら歩いた。日差しが熟んでなんとも気だるい歩きだった。
  12:00 可児川交差点。今でも判然と思い出せないのであるが、これらの道はただ道標に従って田園を歩いていたこととまた友人と会話をしながら歩いていたせいもあり、地理的な感覚が甚だ心もとない。あらためて地図を見てもどの道をたどったのか確かな記憶がない。とにかく友人が疲れたといって途中の駅に近い地点で離脱したのであるが、その地は下切を過ぎ、久々利川と幹線道路の交差する辺りだと思う。時刻も定かでない。彼は名鉄広見線の「明智」駅に向かったと、記憶している。
 歩いていると汗ばむ陽気の蒸す日だった。久々利というところに「小渕ため池」があり、あたりがちょっとした観光公園になっていた。脚を留めてあたりを見物しても良かったが、日脚に追われている時刻なのであっさり過ぎ、久々利城址があるらしいが割愛した。
  18:50 みたけの森。舗装路の峠といったところに自然歩道用の四阿(休憩所)があるので、ここで野営・ひとり宴会をする。寝床は四阿外の地面に設けた。時折前の道を車が通った。

5月3日
  5:00 起床
  6:00 休憩所出発。晴れ
  6:45 みたけ駅。町並みに飲食店や旅館を何軒か見かけた。
  このあたりから、東海自然歩道は旧中山道と折々重なる。

izumisikibuhaka"   7:30 和泉式部廟。

             石に刻んであった歌碑
「ひとりさえ渡ればしずむうきはしに あとなる人は しばしとどまれ」
 この碑は比較的新しい。和泉式部の本当の墓は、この碑の傍らに西瓜ほどの大きさの石となって、畑の間に祀られていた。この方が良い、色恋に浮世をおくった女の、達観じみた矜持が見える。
  10:15 一里塚。謡坂(うとうざか)の山中の良く整備された石畳の道を歩む。沖縄から歩いてきたというおじさんと、マリア像というところで一緒になる。ペースが合わないので先に進んだが、山地をぬけて里に下り、津橋の車道の出会いの食品店でビールを飲んでいると追いついてこられた。このあたり東海自然歩道と旧中山道と別々の表示とルートになっていてどちらを歩くべきか混乱をきたす。東海自然歩道のコースを選ぶ。

itirizuka
14:05 八瀬沢一里塚 

    ここから旧中山道を伝う道である。時代劇めいた風景がそこかしこに見える。細久手日吉町の弁財天の池というちょっとした公園の池畔休憩所でコンロを取り出し鍋焼きうどんの昼食をした。食後居ねむっていると、どこからかあらわれた一匹の猫がなついてきて頭や肩やらと身にまとわりついた。そこを発ってもしばらくは後ろを付いてきた。なにがして気に入れられたのか知れぬ。
街道筋で焼き物類ギャラリー兼宿をやっている店に目を引かれた。沖縄のおじさんが先に入っていた。まだ色香を残す中年増のねえさんが応対をしてくださる。良い酒器があったので食指を動かされたが、徒歩の旅中では弥次喜多道中の梯子になりかねないのでやめた。再訪したい家である。大黒屋旅館という。
 八瀬の一里塚:江戸時代の道標で、10m四方に土を盛りあげた土壇です。たいていは傍に榎の木が植えられています。山の自然の中に江戸時代の名残の造形が対称として息づき、互いに拮抗しあってしかも和みあうという不思議な調和を醸しています。何もせずひねもす佇んでいたいところです。
 14:50 大湫の西端。道が分岐している。南は旧中山道であり釜戸駅へ向かう。30分ほど辺りを見まわしていくうち、旅の続行にためらいが生じてくる。
 15:50 釜戸駅。またもやモチベーションを失ってくじける、東海自然歩道を離脱して帰路に就いた。生暖かく熟れた陽気がいけなかった。離脱

2009年 8月13日 快晴
  夏に東海自然歩道を歩くのには、幾分のためらいもあった。暑さに体力を消耗させ汗みずくになって野山を渉猟するのには、風物を眺める余裕など失われてしまうのだ。馬鹿げているとさえ思える。一つには、暑さという自然の障碍にあえて立ち向かうという気概があったのかもしれず、馬鹿げたことを決行した。
  6:17 豊川住宅前バス出発
  8:21 名古屋駅
  9:25〜9:35 釜戸駅復帰
  10:15 大湫、東海自然歩道前回離脱点。釜戸駅から急勾配の舗装路坂道をひたすら上る。1時間余りを費やして汗をたいそうかいた。余分な距離であると感じるのは、自分の非力さのせいか。
 大湫の中山道宿場町にくる。大湫神明神社がある。旧家然とした民家が道の両脇に続く。町筋に入るとなぜか涼しくなった。脇本陣などの旅籠跡があり、ある家は今も宿を続け、ある家は公共の見学所兼休みどころとして観光に給されていた。お盆のせいか家々の玄関はいっぱいに開けられて人々のせわし気に行き交いしたり立ち働く姿が見られ、昨今の都会ではお目に掛かれなくなった鄙の町の季節の活気と華やぎがある。ゆっくり一日二日逗留したいところ。ここを起点に周囲を歩き回っていにしえの風物をたずねるのも、ずいぶんおもしろかろう。大湫を過ぎると、十三峠という山中の登りになるが、記憶は薄い。暑さから逃れる思いで先を急いだせいか。
  13:00 武並支所 区切りをつけたという感じの地点。休みどころがあるのかと期待したが、役所のような木造建物があるだけだった。途中の権現山一里塚や紅坂一里塚は江戸時代の史跡。榎が濃緑の木陰をつくり夏の日盛りに旅人の休み処として設けられていたと謂う。往時の中山道を偲ばせ、いにしえの旅人になった気分で暑さにめげず気持ちよく歩む。槇ヶ根立場:急いで通り過ぎたので、印象が残っていない。中央自動車道と国道19号線をくぐる地点。時刻も記録なし。国道を少したどって寄り道をし、コンビニで食品やビールなどを贖う。
  17:00 野井休憩所。村の家並みが周りに迫る里の真っただ中。野営地として目指していたところであり、時刻も頃合いであるし疲れ甚だしいので、不本意ながら泊まることにした。四阿腰壁ぎわ副い造りつけベンチに寝袋を敷いたが狭く寝づらい。家明かりが気になるし、それにもまして蚊などの虫の来襲にはまいった。うとうとの居眠りていどの睡眠しかとれない。それに夜になっても暑さは地によどみ、いすわった。

2009年 8月14日
  3:30 眠れないなら起きて歩こうと、寝床をたたんで休憩所を出発する。暗くて道も不確かである。虫も顔に集まってくるので、手で始終払いながら歩む。大名街道と謂われている道筋であるが、まったくその気分ではない。山裾の貯め池の畔から先は山の暗がりなので、ここでしばし坐りこみ明るさの見えるまで待機することにした。1時間ぐらい眠ったようだった。その池から急勾配の登りになった。山道から林道になると、牛の堆肥と乳の酸っぱさが混じった得も言われぬ独特の匂いがあたりにたちこめてくる。畜産試験場である。牛舎がいくつも現れてくる。牛はまだ偸安の眠りをむさぼっているのか鳴き声は聞こえず、牛舎は静まり返っている。不意の闖入者である立場上、気兼ねして努めて音をたてずに息をころして歩む。
  6:00 夕立山休憩所 明るくなった。少々きつい上りだった。
  7:20 根ノ上 根ノ上高原とは少し離れているが。我が記録によると「つるべ井戸」とある、途中の小屋掛けと高札の在ったところかと思う。   

turubeido         釣瓶井戸と高札場

 8:05 武並山の中腹を巻く山道をたどり、里へ下りると線路に行き当たる。その線路を渡った方に岩村の町があった。駅に寄る。俳句投稿箱があったので、拙句を一つ詠んで投函した(後日拙句の掲載された小さな刷り物が自宅に送られてきた)。
 岩村は岩村城を中心とした城下町である。夙にその名は知れ渡っている。鎌倉時代、源頼朝の重臣遠山景朝が築き、後戦国時代まで岩村遠山氏がこの地を治めた。戦国の世になると武田氏と織田信長・徳川家康らの争奪が繰り広げられた。特に女城主「おつやの方」を巻き込んだ「岩村城の戦」は有名。40年前当時愛知県丹羽郡の片田舎に住んでいた20代前半のわたしは、サイクリングでこの地を通りかかった記憶がある。その懐旧の想いがあるので、しばし街並みを見物した。驚いたことに、鴨長明がひと頃起き伏ししたという小さな家がさりげなく在った?山あいの古い町並みの落ち着いた小さな城下町は、一見住みやすそうである。好ましく感じた。かき氷を口にして、また炎天下を歩く。
  9:30 飯高観音 見渡す限りに広がる畑地の陽炎の立ち昇る舗装路を歩んでいくが、道標も目印もないので道を迷う。2度ほど、道を行き戻りした。コンパスの方向をたよりにする。飯高観音は、たいそうにぎわっている寺院である。まわりを園地が囲んでいて、おおぜいの参拝客が、涼気を求めるのか、遠足気分を楽しんでいた。
  12:50 明智駅着。駅までの道のりは遠かった。炎天下、太陽を照り返して白くぎらつく舗装路は丘を越えたり下りたりした。東海自然歩道をトレースすることより、なるべく短い歩程で駅にたどり着きたかった。目の前遠くを歩いていたおじいさんに追いつくと、かなり衰弱しているのではと気になった。こちらも同じようなので分かる。残り少ないペットボトルのお茶を勧めたら、大丈夫ですと言う。明智の駅へはいろいろ道があるらしかったが、どれが最短なのか要を得ない。結局、このまま進むのが確実らしい。明智の町はこのあたりにしては相当開けているようだった。街並みを幾度も曲がり家並みが混みだし、昼を大幅に遅れて昭和レトロ風の駅舎へようやく至ることができた。気合いだけでは、暑さに勝てないと思い知らされた。離脱

2009年 10月10日
  7:37 新大阪のぞみにて出発。
9:27 恵那駅経由

aketieki   10:20 明智駅復帰 晴れ
 

八王子神社の急な階段を上って、意気揚々と歩む。大正ロマン館は一見に値する。大きな田舎風の屋敷では男たちの幾人かが囲炉裏に薪を燃やしていた。昼日中から集まって何をするのだろうかと、ちょっと気になった。薄暗い屋内に視界がかすれるほど煙がたちこめていたのが印象に残っている。この町に何日か滞在したくなる。千畳敷というところで道を失う。小高い山中を彷徨して下りたところが東海自然歩道の近くだった。
  11:50 山中で昼食
  上柏尾、下柏尾と里道をたどり、途中から山道を登って谷筋へ下りると幹線道路に合流する。
  13:15 颪(おろし)という集落に着いた。さらに、谷筋の道路を場違いなハイカー気分で北上する。
  13:35 中山橋という大きな橋を渡り、東へ舗装路を進む。大平の手前で南へ分岐。やっと車の騒音から離れ、田舎道にはいる。
  14:25 黄梅院。十一面観世音菩薩を本尊とする曹洞宗の寺院。山号は香称山。恵那三十一観音霊場17番。山の中腹に建つ派手な寺院が、遠目に見えた。柿畑から山道になり、南下する。
  16:10 閑羅瀬(しずらせ)。山から急坂を降りると、矢作川の深い谷に入った。ここまでは奥三河ののどかな田舎の里道や丘陵を歩いてきたのだったが、ここ矢作川にかかる閑羅瀬橋を渡ってからは、深山へとわけいる急峻な登りとなった。急な舗装路を上ると、途中から尾根への登りにとりつく。
閑羅瀬橋を渡ってすぐ、道に不安があったので、出会った60歳前後の男に尋ねたのだったが、旭高原はここから遠いぞと言うのだった。言外に、あんた歩きとおすことができるか?と揶揄しているようだった。藪の多い尾根への急傾斜の登りには手こずった。ここで肩とザックに吊るしていた国土地理院地図の全枚数とコンパスを失った。薮木に引っかけてしまったらしい。これはいけないと山道を駆け下り探してみるが徒労に終わった。山中は急速に暗くなりつつあった。尾根へ登り切ると舗装した林道の上りになったが、実際遠かった。
  18:20 旭高原元気村。途中で日が落ちた。明かりのまったくない山中をヘッドランプの小さなスポットをたよりに上り続けた。しかし、光が急に弱りだし電池が切れた。ヘッドランプの電池を取り換えるのは造作もないが、暗闇では余程の注意と努力を要した。旭高原の元気村に近づくと、光の無かった山にようやく街灯があらわれたので、心細さから幾分開放された。元気村の施設はひろく充実しているようだったが、暗闇の中、洗い場の水道カランを回しても水は出なかった。携帯ポリタンは空なのだ。施設の給水タンクの下に蛇口があったのでひねってみるとか細い水が出たので、ポリタンに受けた。やがて水は途切れた。ポリタンに3分の一ほど溜まったので、炊飯ができた。
 星の見える空き地に寝床を採った。施設の無人の建物群が不気味だった。魑魅魍魎が跋扈するのでないかと、漫画めいたことも空想しながら星を見上げた。

2009年 10月11日
  6:00 元気村の野営寝床を撤収・出発。

 天気は快晴、朝の清々しい精気が高原に満ちている。よく整備された林道・散策路を行く。バンガローの泊り客がちらほら犬を散歩させている。歌でも口ずさみたくなる気分爽快な周りの自然である。夜とは異次元の別世界のような明るい風景だった。    asahikougen        旭高原の朝

  9:00 猿が城。林道から山道になるが、どこかで道をまちがえたらしかった。旭高原への上り途中で最初胸に吊るしたコンパスを失くし、次にザックに吊るした地図一そろいを落としたのだった。コンパスは時計で代用できるので我慢できるとして、地図を失くしたのでは盲進み同然になる。だから道を誤ると、訂正するのがむつかしくなった。方向と勘をたよりに、出合いの三叉路を東へ進むと、丘を登ったあたりで東海自然歩道の標を見つけることができた。地形の襞に合わせ複雑に向きを変える山道を、道標をあてにしてひたすら南下していく。
 伊勢神峠(タイムを記録していなかった)着。伊勢神搖拝所がある、戦前のナショナリズム盛んな折の名残らしい。ちょっとした休み処であったが、ひきつづき南方向へ歩を進める。
  12:20〜12:45 大多賀峠。ここから山道の登りになる。まとまった昼食を摂る。なぜかベーコンエッグの匂いが口辺によみがえった。この大多賀峠あたりで水を補給するつもりだったが、水道も湧き水もなかった。この先、尾根道に水場は期待できない。折しも30代半ばと思われるデイパック軽装の女人が降りてきたので、ダメ元で水場の有無を尋ねてみた。無ければ、登る前にこの地で探すつもりだった。この上には無いと、女人は言った。困ったとこちら。もう山を下りたのだから私には必要ないし、良かったら差し上げます、残りで悪いんだけどと女人が言う。ザックから550ミリリットル入りペットボトルをとり出し、渡してくれる。8割方残っている。持ち合わせの水はまだ200ミリリットルほど残っているし、明日までなんとかやりくりがつきそうだ。ほんとうに良いのですか?と念をおすと、かまわないの、と頓着する風でもない顔つきだ。丁重にお礼を言ってあっさり別れる。スタイル良しかんばせ良しと、山から忽然降臨した女神に圧倒されてしまった。
 里から離れ、本格的な寧比曾岳への登山になった。


14:00 寧比曾岳頂上(1120m) nebisodake 
  来る途中、スキーゲレンデのような急斜面を、まちがって登ったりして、幾分時間をロスしている。東海自然歩道中印象に残る山の一二を争うほど、やまふところの深い大きな山である。山容が豊かであり、登る道筋が多彩に見映えを変化させる。それなりに、登るには労力を贖わされる。登り切った後の虚無は、達成感の裏打ちが埋めてくれる。頂上は丸く広く、眺めもよく、テーブルやベンチがあり、避難小屋に使えそうな屋根のある舞台もある。何に使われるのか、いぶかしかったが。
 しばらく余韻を楽しんだ。


 15:30 熊笹に埋もれた山道をしばらく下ると、藪のぽっかり開けた平らな場所に出た。ここに東京ー大阪中間点だと表示看板があった。テーブルとベンチがあったので、ここで野営をすることにした。炊事をしていると、登山者がひとり登って行った。寝入りはな、長く尾を引く鹿の恋鳴きが遠くに聞こえた。

中間点
10月12日
  6:20 野営地出発
  山腹を巻く緩やかな道を進む。下山路なのに径はなぜかゆるい上り勾配になっていた。
  7:20 段戸裏谷。公園のようなテーブル・ベンチ、トイレがあり、ここで野営するのだったと、悔やまれた。少し進むと山の湖があり、釣り客用の案内受付小屋がある。地図とコンパスを失くしたので道に不案内であったから、ここの小屋の番人に尋ねてみると、バスはこの山奥までは来ていない、バスの来ているところはこの先山を下った田口の町まで行くしかないという。なあに、近い、車で半時間だわ、と言われたものだ。車の通る舗装路を歩いた。きららの里というバンガローや食堂や宿泊ロッジなどのひろい施設へ通りかかる。中へ入って行き、自販機のコーヒーを買った。管理人の男が居て、話の相手になってくれる。冬季は雪に埋もれるというのでもうすぐ2週間もすればロッジを閉じるという。やはり、東海自然歩道のコースには不案内であり、確実を期すなら林道を歩くしかないと念を押された。
 林道は最初北へ向かい、よほど進んでから今度は逆に南下、最終的に谷沿いの東進となった。結局山一つを大きく迂回したのだった。4時間かけて谷の舗装路を上がったり下りたりと、ふてくされて歩く。谷を縫うので大きく曲がりくねり、見通しがきかない。
 単調な林道舗装路をたどって平地に下りてくると、大名倉の集落に着き、人家が道の両脇に続く。桜の樹の植わっている休憩広場が川畔にあらわれたりして、景観が良くなってくる。
 田口の町は全体が丘の上にあって、その手前から急な登りとなった。
 11:35 田口の町。山奥にしては割合開けた町だった。観光地の体裁をととのえていて、土産物屋や奥三河総合センターという観光案内の施設がある。1965年廃線となるまで本長篠駅から伸びる田口鉄道の終点三河田口駅があった町である。往時は林業盛んな処であったらしい。冨田屋というおねえさんのやっている鰻屋で鰻とビールを摂った。
 バスに乗って
  13:15 田口 豊鉄バス発離脱
  13:55 本長篠着
  14:00 同JR発
  15:00 豊橋 15:16新幹線発
  17:00 新大阪着
  恵那ルートは、これで完歩した。次は三河路のルートである。