2009年 5月2日 恵那路
今回は恵那ルートをたどって奥三河寧比曾岳をめざす。
5:42 自宅最寄りの「豊川住宅前」バス停を出発。
8:32〜9:00 名鉄犬山遊園駅復帰。この地の長年の友人と落合う。旧交を温めがてら一緒に連れだって出発する。地理に明るい友人の案内で、継鹿尾の山地へ入る。若かりし頃、自分も犬山に住んでいたのでこのあたりは休みの日よく自転車できたものだった。歳月の空隙は地理的な記憶をかすれさせていた。継鹿尾の山地を抜けると西帷子の里に下りた。そこからは、森を通ったり川筋をたどったり見渡す限りの畑地の中のあぜ道のような道を進んだりした。だらだらと、友人とおしゃべりをしながら歩いた。日差しが熟んでなんとも気だるい歩きだった。
12:00 可児川交差点。今でも判然と思い出せないのであるが、これらの道はただ道標に従って田園を歩いていたこととまた友人と会話をしながら歩いていたせいもあり、地理的な感覚が甚だ心もとない。あらためて地図を見てもどの道をたどったのか確かな記憶がない。とにかく友人が疲れたといって途中の駅に近い地点で離脱したのであるが、その地は下切を過ぎ、久々利川と幹線道路の交差する辺りだと思う。時刻も定かでない。彼は名鉄広見線の「明智」駅に向かったと、記憶している。
歩いていると汗ばむ陽気の蒸す日だった。久々利というところに「小渕ため池」があり、あたりがちょっとした観光公園になっていた。脚を留めてあたりを見物しても良かったが、日脚に追われている時刻なのであっさり過ぎ、久々利城址があるらしいが割愛した。
18:50 みたけの森。舗装路の峠といったところに自然歩道用の四阿(休憩所)があるので、ここで野営・ひとり宴会をする。寝床は四阿外の地面に設けた。時折前の道を車が通った。
5月3日
5:00 起床
6:00 休憩所出発。晴れ
6:45 みたけ駅。町並みに飲食店や旅館を何軒か見かけた。
このあたりから、東海自然歩道は旧中山道と折々重なる。
7:30 和泉式部廟。
14:05 八瀬沢一里塚
2009年 8月13日 快晴
夏に東海自然歩道を歩くのには、幾分のためらいもあった。暑さに体力を消耗させ汗みずくになって野山を渉猟するのには、風物を眺める余裕など失われてしまうのだ。馬鹿げているとさえ思える。一つには、暑さという自然の障碍にあえて立ち向かうという気概があったのかもしれず、馬鹿げたことを決行した。
6:17 豊川住宅前バス出発
8:21 名古屋駅
9:25〜9:35 釜戸駅復帰
10:15 大湫、東海自然歩道前回離脱点。釜戸駅から急勾配の舗装路坂道をひたすら上る。1時間余りを費やして汗をたいそうかいた。余分な距離であると感じるのは、自分の非力さのせいか。
大湫の中山道宿場町にくる。大湫神明神社がある。旧家然とした民家が道の両脇に続く。町筋に入るとなぜか涼しくなった。脇本陣などの旅籠跡があり、ある家は今も宿を続け、ある家は公共の見学所兼休みどころとして観光に給されていた。お盆のせいか家々の玄関はいっぱいに開けられて人々のせわし気に行き交いしたり立ち働く姿が見られ、昨今の都会ではお目に掛かれなくなった鄙の町の季節の活気と華やぎがある。ゆっくり一日二日逗留したいところ。ここを起点に周囲を歩き回っていにしえの風物をたずねるのも、ずいぶんおもしろかろう。大湫を過ぎると、十三峠という山中の登りになるが、記憶は薄い。暑さから逃れる思いで先を急いだせいか。
13:00 武並支所 区切りをつけたという感じの地点。休みどころがあるのかと期待したが、役所のような木造建物があるだけだった。途中の権現山一里塚や紅坂一里塚は江戸時代の史跡。榎が濃緑の木陰をつくり夏の日盛りに旅人の休み処として設けられていたと謂う。往時の中山道を偲ばせ、いにしえの旅人になった気分で暑さにめげず気持ちよく歩む。槇ヶ根立場:急いで通り過ぎたので、印象が残っていない。中央自動車道と国道19号線をくぐる地点。時刻も記録なし。国道を少したどって寄り道をし、コンビニで食品やビールなどを贖う。
17:00 野井休憩所。村の家並みが周りに迫る里の真っただ中。野営地として目指していたところであり、時刻も頃合いであるし疲れ甚だしいので、不本意ながら泊まることにした。四阿腰壁ぎわ副い造りつけベンチに寝袋を敷いたが狭く寝づらい。家明かりが気になるし、それにもまして蚊などの虫の来襲にはまいった。うとうとの居眠りていどの睡眠しかとれない。それに夜になっても暑さは地によどみ、いすわった。
2009年 8月14日
3:30 眠れないなら起きて歩こうと、寝床をたたんで休憩所を出発する。暗くて道も不確かである。虫も顔に集まってくるので、手で始終払いながら歩む。大名街道と謂われている道筋であるが、まったくその気分ではない。山裾の貯め池の畔から先は山の暗がりなので、ここでしばし坐りこみ明るさの見えるまで待機することにした。1時間ぐらい眠ったようだった。その池から急勾配の登りになった。山道から林道になると、牛の堆肥と乳の酸っぱさが混じった得も言われぬ独特の匂いがあたりにたちこめてくる。畜産試験場である。牛舎がいくつも現れてくる。牛はまだ偸安の眠りをむさぼっているのか鳴き声は聞こえず、牛舎は静まり返っている。不意の闖入者である立場上、気兼ねして努めて音をたてずに息をころして歩む。
6:00 夕立山休憩所 明るくなった。少々きつい上りだった。
7:20 根ノ上 根ノ上高原とは少し離れているが。我が記録によると「つるべ井戸」とある、途中の小屋掛けと高札の在ったところかと思う。
釣瓶井戸と高札場
2009年 10月10日
7:37 新大阪のぞみにて出発。
9:27 恵那駅経由
10:20 明智駅復帰 晴れ
2009年 10月11日
6:00 元気村の野営寝床を撤収・出発。
天気は快晴、朝の清々しい精気が高原に満ちている。よく整備された林道・散策路を行く。バンガローの泊り客がちらほら犬を散歩させている。歌でも口ずさみたくなる気分爽快な周りの自然である。夜とは異次元の別世界のような明るい風景だった。 旭高原の朝
14:00 寧比曾岳頂上(1120m)
来る途中、スキーゲレンデのような急斜面を、まちがって登ったりして、幾分時間をロスしている。東海自然歩道中印象に残る山の一二を争うほど、やまふところの深い大きな山である。山容が豊かであり、登る道筋が多彩に見映えを変化させる。それなりに、登るには労力を贖わされる。登り切った後の虚無は、達成感の裏打ちが埋めてくれる。頂上は丸く広く、眺めもよく、テーブルやベンチがあり、避難小屋に使えそうな屋根のある舞台もある。何に使われるのか、いぶかしかったが。
しばらく余韻を楽しんだ。
中間点
10月12日
6:20 野営地出発
山腹を巻く緩やかな道を進む。下山路なのに径はなぜかゆるい上り勾配になっていた。
7:20 段戸裏谷。公園のようなテーブル・ベンチ、トイレがあり、ここで野営するのだったと、悔やまれた。少し進むと山の湖があり、釣り客用の案内受付小屋がある。地図とコンパスを失くしたので道に不案内であったから、ここの小屋の番人に尋ねてみると、バスはこの山奥までは来ていない、バスの来ているところはこの先山を下った田口の町まで行くしかないという。なあに、近い、車で半時間だわ、と言われたものだ。車の通る舗装路を歩いた。きららの里というバンガローや食堂や宿泊ロッジなどのひろい施設へ通りかかる。中へ入って行き、自販機のコーヒーを買った。管理人の男が居て、話の相手になってくれる。冬季は雪に埋もれるというのでもうすぐ2週間もすればロッジを閉じるという。やはり、東海自然歩道のコースには不案内であり、確実を期すなら林道を歩くしかないと念を押された。
林道は最初北へ向かい、よほど進んでから今度は逆に南下、最終的に谷沿いの東進となった。結局山一つを大きく迂回したのだった。4時間かけて谷の舗装路を上がったり下りたりと、ふてくされて歩く。谷を縫うので大きく曲がりくねり、見通しがきかない。
単調な林道舗装路をたどって平地に下りてくると、大名倉の集落に着き、人家が道の両脇に続く。桜の樹の植わっている休憩広場が川畔にあらわれたりして、景観が良くなってくる。
田口の町は全体が丘の上にあって、その手前から急な登りとなった。
11:35 田口の町。山奥にしては割合開けた町だった。観光地の体裁をととのえていて、土産物屋や奥三河総合センターという観光案内の施設がある。1965年廃線となるまで本長篠駅から伸びる田口鉄道の終点三河田口駅があった町である。往時は林業盛んな処であったらしい。冨田屋というおねえさんのやっている鰻屋で鰻とビールを摂った。
バスに乗って
13:15 田口 豊鉄バス発離脱
13:55 本長篠着
14:00 同JR発
15:00 豊橋 15:16新幹線発
17:00 新大阪着
恵那ルートは、これで完歩した。次は三河路のルートである。