東海自然歩道-酔いどれ天使の気まま旅

東海自然歩道-酔いどれ天使の気まま旅


2008年4月15日から5月2日まで:美濃津屋から関ケ原を経て犬山まで。

2008年 4月15日 晴れ曇り
 この頃になると会社を定年退職したので、よほど時間的には自由になった。いつでも気ままに旅をできる身分になったが、定年だといって仕事もせず遊び暮らせるほどには経済的に余裕のある内緒でもなかったので、実はある大手の不動産建設会社に契約社員として就職が内定していたのであった。その会社の初出社の日が春の連休明け5月上旬だったので、それまでは東海自然歩道をまとまって日にちの許されるかぎりにおいてできるだけ遠くへ足を延ばそうといきごんで、今回の出発に臨んだのであった。
 とは言い条、5月までずっと歩きとおせるかというとそうでもなくて、友人と台湾旅行をする計画を十日ほどのちに決められてあったので、それまでの間という自然歩道歩きになる。
  5:45 自宅最寄りの「豊川住宅前」バス停出発
  9:13 養老線大垣発
  9:43 三岐鉄道美濃津屋復帰
 好きな名とは裏腹に殺風景な無人駅である。愛着を持った駅として心ばかりの芥子粒の華を望んだのであるが、駅頭の小さなロータリー広場には廃れた店跡が面しているのみで、雀が群れ集って楽し気にさえずっていた。そのなにもない無彩色の中の小さな雀の無心さが華というなら、いかにも自分の身に副っているような気がした。村内を通り抜け、土手上の県道をまたぎ、養老山地を北へ向かって歩く。歩き初めに、熊に注意の看板があった。一山越え植林されたような山桜の園を通り抜ける。
11:10〜11:35 赤岩神社(小倉谷)。うす曇りの空に陽が照って生暖かい日よりである。

yamazakura 山桜の道を歩む   

 

 赤岩神社


ザックの背がすぐに汗ばんだ。ひと気のない田園と小高い山中を歩いて里に出ると、この神社に着いた。しばし、休憩をとる。日程に余裕があるので急がずのんびり歩く算段である。休憩していると、社殿の方から5,6匹の猫が集まってきた。平日のせいか、観るものみなが物憂い綾どりに縁どられているような気がする。歳月の流れに消え失われてしまいそうなこの平凡な自然に、自分も一緒に溶け込んでいきそうだった。
  12:30〜12:50 養老菊水の泉。観光客が足を留めて集まっていた。

養老公園の観光地に入った。まっさき広い駐車場が目に飛び込んだ。平日なのに観光客が多い。土産物屋や飲食店、旅館など東の山地から西の津屋川へと流れ下る谷川に沿って建ち並んでいた。観光バスや乗用車から降りた人々に似つかわしい場所だった。標にしたがって川畔の公園を山へと人々の歩並に合わせて2kmほど上っていくと、養老の滝があらわれた。落差32m、乱れなくまっすぐ落ちる姿は滝の優等生を想わせる。
  13:40 柏尾寺跡。養老公園を後にすると、暗い山影に入った。単調な里山の上り下りが続く。遠くの車の暗騒音が樹林の中へまぎれこんでくる。山際の神明神社の鳥居をくぐると金色堂跡の礎石群が建物の投影図を示すように配されていた。柏尾寺跡:養老町教育委員会案内板によれば、多芸七坊の中の一寺で奈良時代の創建といわれ、二十四坊があったという。織田信長に焼き払われるまでたいそう興隆した規模の大きな寺であったらしいが、当今においてはさほど余人の関心を集めていないようで、こと私にしても目の前にするまでまったく不明であった。寺院の奥に千体仏といって、高さ3m直径15m円錐形の壇に築かれ千体を越える石仏が安置されています。苔むした石仏はそれぞれに表情がうかがえて味わい深いものがあります。
  15:55 桜井。変化のないさびしい山道の上り下りにいい加減倦み、地図でみる山道と平行に通る細い里道へと下りる。農家や畑地が両側に続く。他国者のめったに通らない道なのか、家々の裏口庭や倉庫は開け放されていた。しかし人の姿は見当たらず、犬が一匹不興気な顔つきで歩いていく。
  16:30 夕暮れに空が染まると、野営地の物色にあたったが、生活臭のこもる里の中では落ち着かず、やはり自然を求めて街道を離れ元の東海自然歩道山中に戻った。山中の小さな谷川を渡った隆起の上で野営。夕食に生米を炊きカレーを食した。寝袋から夜空を眺めると、月は笠をかぶっておぼろであった。

4月16日 
  5:00起床。テントは持ってきたがポールを忘れたので使いものにならず、地面に直に寝た。天気は曇り空。
  6:30 野営地を出発。進んでいくと徐々に山から下りていき、里の舗装路に合流した。牧田一色という地は広い谷間の里である。牧田川という大きな河川に正対した。車両の多い県道の広瀬橋を渡り、すぐに左へ折れて県道と別れ土手道をたどる。延々と続くかと思われる土手道をたどっていくと国道365の高架が見えてくる。川は二股になり、ここから藤古川になる。国道の下を通り、尚も大きく湾曲した土手道を進むと上を通った国道が今度は右手に遠く見えてくる。土手道は最後に県道と言った感じの橋の袂にでた。舗装路に上がり、橋を西へと渡ると道は川に沿う谷間の県道となる。川の名称は今須川に変わる。谷は狭まり、川は深い濠のように切れ落ち、川面が遠のく。
 平井集落にある聖蓮寺(しょうれんじ)という大きな寺院に着く。親鸞聖人と関わりのある古刹で、「八房の梅」という古木が県指定の天然記念物になっており名物だという。門前を掃く老婦人にたずねると、寺院裏手が松尾山登山口になっていると親切な説明を受ける。ここへくるまでの途中にも松尾山へ登るための林道があったらしいが、どちらが正当なのだろうか。
  10:35 松尾山頂上。たかだか300m足らずの低い山であるが、平地からすっくと起き上がっている山なので登リは急であった。
  松尾山は西軍の小早川秀秋の陣跡である。関ケ原決戦の時、西軍・東軍の両方が眺められる絶好の位置にあった。日和見を決め込んだ秀秋は、結局、打算に動き狭量を暴露した。(事前に家康と通じていたとの説もあるが、だとすれば西軍に対する用意周到な裏切りである)
 平日のせいか、頂上はうらさびしかった。低い空が頭上を覆っていた。「すみませんせぇん子供らがたくさん上がってきますんでぇ」と坊主刈の小柄な壮年がわたしの傍へ駆け寄って告げた。なるほど、遠足らしいおおぜいの児童の声が聞こえてきた。寂しい頂上が、生気を得たようににぎやかになった。      

sekigahara" 松尾山から関ケ原を望む   

 

11:35 不破の関跡。松尾山から下りて名神高速道路の下をくぐり、里の車の通る道と何度も交差して北へ進む。町並みを歩いていくと、家並みに挟まれて不破の関跡があった。観光用に設けられたとありありと知れる興趣のない木造平屋であった。           不破の関跡
 このあたりから先、自然歩道の道標がなくなり東西に延びる一本道の、はてどちらへ進んでよいものやら判然としないのでとにかく一方へ進むに如くはないと西へ歩んでいくと、小さな隧道をぬけたあたり、山へと入る暗い陰気な道を、らしきと検討をつけて登って行った。どうやら正解だったらしく山を抜けると標にであった。
  13:00 関ケ原エコミュージアム。こじんまりした施設には、中年アベックが自販機の傍にたたずんでいた。
  14:00 笹尾山頂上(石田三成の陣跡)
関ケ原史跡の途絶えた車道で食料品店を見つけ、トマト、卵焼き、飲料水2リットルを買い求める。
          石田三成陣地跡(笹尾山)

 15:50 伊富岐神社。途中、里道へ入る幹線道路の交差点で40歳をとうに過ぎているのであろう妊婦に出会う。晩食の買い物なのか遠い道のりを歩くさまに大儀そうなけだるさの顔が見えた。外世話なおせっかいではあるが、家庭の事など気になった。神社は広い境内と立派な入母屋作りの社殿を構えた立派な風格である。気兼ねなくここをこの日の野営地とした。許可を得ようとするが、社務所は無人だった。手水小舎があったので、上半身を脱ぎ、汗を拭った。   

    伊冨岐神社本殿スケッチ

 

denen   神社から田園を眺める


 空はどんより厚い雲がたれこめた。コッフェルで米を炊く。暮れていく田に蛙が陽気に鳴きだした。杉大木の下にマットを敷いて寝た。夜半にぽつりぽつり降ってきたので社殿玄関庇下へ寝床を移す。
 本日の歩程:25km

4月17日 未明から本降りの雨
  6:30 神社出発
 雲が足早に流れていくので、雨は上がるかと思ったが、そうではなかった。厳重にゴアテックス雨具の雨ごしらえを上下に着込んで出発。
 菩提、田町と、雨に沈んだ集落の中を通っていく。雨具の布地を通して雨水が染み透ってきた。背中に冷たい水気の伝うのが分かった。ようやくにしてたどり着いた藤ケ森休憩所はままごとじみたベンチがあるだけの公園施設に過ぎず雨除けの用には満足できるものでなかった。近くの道脇で野菜などの露天商をしているおじさんに教わり、梅谷コミュニティーセンターが雨宿りのできると知った。
  8:30 梅谷コミュニティセンター。ここで雨を避けて2時間余り休憩する。寒くなった。歩くのをやめてどこかに停滞したかった。しかし、宿がないし、テントが使い物にならないので雨を避ける術がない。雨脚は衰えず雨中歩きを再開する。
 里道と離れ、南へと山地を入っていく。
里へ下りるとJR踏切を渡り美濃国分寺に着いた。高野山真言崇の準別格本山且つ西美濃三十三番霊場満願札所。国指定の重要文化財「薬師如来坐像」がご本尊であるというので、この雨の日でも参拝客がおおぜいくりだしていた。休憩所と土産物屋を兼ねた店があったので、しばし休む。暖かいものを欲しかったが、自販機の飲料は夏向きに冷やされていた。

 

   美濃国分寺全景


 美濃国分寺から北へと東海自然歩道の示すまま舗装路をたどっていくと円興寺附近に着いた。道沿いに家々が建て込みだし、お寺があらわれれば雨を避けて休もうと目論んだが、道から奥まっているらしく見落としてしまった。正当コースの峠を越えず、多少でも雨をしのぐつもりで円興寺トンネルを通る。雨の中黙々と歩む。雨の冷えを避けるには歩き続けるしかないという心境である。
  池田町の盆地に下りた。温泉のあるらしいが、看板の案内を観ると遠い距離だった。道の駅は、小屋掛けされただけの地元産品の店だ。即席に口へ入れられる食品は商っていなかった。
幹線道路から北へと別れて林道に入る。霞間ヶ渓(かんかけい)というところは野外レクレーション施設のあるところであり、大きな会場施設のような建物でしばし休憩した。雨に濡れて体が冷え寒かった。ここの自販機には温められた飲料があったのでありがたかった。缶コーヒーと行動食のナッツを口に入れる。

 

   瑞岩寺山門


 

   瑞岩寺本堂


 山から里へ抜けると大きな谷筋に出、瑞岩寺という由緒あるらしき立派な寺に着いた。休めるかなと期待したが休憩できるような備えはなかった。軒下に立ちすくんだまま束の間足を休める。今夜の泊りに憂いがあった。雨を避ける場所にたしかな目当てがなく、テントさえ張ることができればどうにか夜を越せるが肝心のポールがないのでどうにもならぬ。雨をしのげる場所を見つけなければ、雨に打たれたまま夜を越さなければならないのだ。なんとかして対策を講じなければならぬ。舗装路のさきに春日六合という町があり、その先に「モリモリ村」という規模の大きな入浴施設があるのであるいは宿泊できないかと期待した。春日六合の町で見つけた酒屋で日本酒の900tパックを買う。店の主人に尋ねてみると「モリモリ村」は宿泊施設ではないという、でももりた屋の宿に行けばばあさんが佳いひとなので引き受けてくれるだろうと、明るい希望を話してくれた。
  日が暮れて、町筋の明かりがいやに目立ってきた。たずねて行った宿「もりた屋」のばあさんは、だがひき受けてくれなかった。春先からこっち腰を痛めて体が思うようにならず、客は泊めていないという。食い下がって頼んでみると、食事の世話はできないけれどということでようやく宿泊に応じてくれた。
  17:30 もりた屋投宿。濡れた衣類を土間に乾した。ゴアテックスの雨具が長年着古したので無防備に雨水を浸みとおらせ、まったく役に立たなかったのだ。ズボンなどは電気こたつの暖で乾かす。
日本酒が、処を得たかのように喉を流れ通った。人の好いおばあさんは、食事はできないと言いながらも、カレーライスを2階の座敷に持ってきた。そして、世間話に花を咲かせた。引きこもりの青年が年端もいかないひとの娘さんを二階の自分の部屋に連れ込み何年も監禁していた事件とか、失踪した女優のニュースなど巷間を騒がす社会面の話題を挙げるのだった。この宿は、東海自然歩道では夙に名が知れ渡っているらしいと、後で知った。

 

森田屋外観


4月18日 布団から起き出て真っ先に窓から空を観る。雲のはざまに湖のような青色が空に浮かんでいたので、これきり雨は過ぎたのだと思った。
  7:30 もりた屋出発。「今日は天気になりますよ」という宿の老女将の声に励まされて、気持ちが踊った。雨はこの時まったく上がっていたが、不気味な雲が間断なく空を過ぎる。
  8:00 鍋倉山への高橋渓谷林道分岐。道は両側を山に挟まれた谷の、底をたどる林道である。歩きだして半時間も経たないというのに晴れていた空がかき曇り雨がまた降りだした。止んだり降ったり、そして青空は手の届かない山の向こうへ逃げ去り、昨日と同じような雨脚になった。ほとんど車の通らないさびしい林道を、雨に打たれ単調に歩むのは、どうにも疲れる。  

高橋渓谷入口

 
 9:30 谷山集落。廃村である。道から逸れたところの、村の公民館の軒下で雨を避ける。行動食のナッツ類を口にした。雨脚のおとろえるのを待って一時間ばかり休憩した。小寒い冷やかさが地にべったり張り付いていた。雨は止まなかった。軒先から伝い落ちる水をぼおっと眺めて過ごした。次から次へと雲が峰の上からあらわれ、また峰の向こうへと過ぎて行った。   

       谷山廃村


  10:30 谷山集落発。雨を気にして徒に時間を空費することには耐えがたくなって歩き出す。林道の舗装路だったのが終点の転回場になってそこから山道になった。この雨の中ふってわいたように、菅笠をかぶった一人の釣り師に出会った。かくべつ驚きもせず、鍋倉山に登るのだというと「ああそうか」と言うだけだった。
  尾根へ上がるはずのところを、明瞭な沢道をまちがえて進んでしまう。山葵畑の何枚かを過ぎると、道は斜面をトラバースするすべりやすい危ないルートになった。沢も狭まり、おかしいと気づいて地図を取り出す。方向が違っている。沢の流れに下り、瀬の中を歩いて戻る。分岐点の藪の中に標が在った。分かりやすい道だった。しかし、雨幕に閉ざされて視界が悪く、前方の目標がとらえにくい。高度を上げると風雨が強くなってくる。  
14:50 鍋倉山避難小屋着。登りは急勾配の連続だった。稜線にあがれば少しは楽になると期待したが、急なアップダウンの繰りかえしがいつ果てるとも知れず続いた。雨幕があたりの状況を見えにくくしているので、山路の全容が不確かにしかつかめなかった。しかし雨脚を透かして木立の奥の小屋を発見できた時は、たいそううれしかった。この喜びはついぞ体験したことのないほど感動ものだった。なんにでも良い、誰彼に対して感謝の念が湧いた。頑丈な小屋は、雨風と自然の冷徹を完全に防いでくれた。中はひろく、隣室にトイレがあった。もりた屋の朝飯の余りで即席につくったおにぎりを、この日初めて口にした。一息つき、外の濡れた粗朶を小屋の中へ集め、ネイチャーコンロを焚く。濡れた木でも、こまめに火を育てると安定した炎になった。火の暖が心地よかった。火を起こしている間に時間が経ち、いつしか夜のとば口に入っていた。夕食の座を設け、酒宴を張った。喉を通る酒のうまみに感動する。米を炊き、カレーライスを食す。暗くなると風雨が衰え、霧雨になった。狐火の様な明かりが、窓に映った。登山者のランプかと思って外へ探しに出たが、ひとは現れなかった。下界の町明かりが、幻燈のように霧に映じたのだろう。

4月19日
朝まだき、雨は上がっていた。小屋周りに濃い霧がたちこめている。空にはしかしまだ雲が間断なくなく流れていた。
  5:30 起床
  7:10 小屋出発
  7:20 鍋倉山頂上(1050m)。雨に降られ苦労したせいもあり、東海自然歩道中特に印象に残った山である。東海自然歩道、三大難所らしい。(雨に濡れてカメラは故障しており、頂上写真他は撮れなかった)
  9:40 日坂越え分岐点。急な下降路をたどる。この時、ようやく空が晴れて陽が降りそそいだ。昨日の困苦が嘘のように思え、顔を陽に当てる。急な尾根の下り路をおりていくと和佐谷という沢の林道になった。
  12:00 西津汲。里に出た。谷に副って幅広の県道を2時間ほど進むと国道の大きな橋に行き当たる。このあたりで道が怪しくなり、土地の老婆に尋ねたりするものの不得要領で、まちがったまま進むが気づいてもとの地点に引き返し、あらためて東海自然歩道の標を発見したのである。標の面が東方に向いていたので西から東へ旅する人間には見落とすということだ。30分ほどロスをした。途中の何でも屋兼の食品店でその後の旅必要品や食料を補給しようと思っていたが、思ったほどには食材の種類をそなえておらず、不愛想な女店主から昼食の「てんむす」だけを買った挙句、張りつめた糸が他愛なく切れた。旅の続行をこの地点で断念することにした。浮世の俗っぽさが恋しくなったのが本音だといえば言える。

higasitukumi 東津汲道標   

   東津汲のバス停から揖斐川町コミュニティーバス「名阪近鉄バス」に乗り、今回の東海自然歩道から離脱。

2008年 4月29日 晴れ
  友人との台湾旅行から帰り自宅に落ち着く暇もなく、すぐに東海自然歩道へと気が奔った。
  6:17 自宅最寄り「豊川住宅前」バス停から乗車、出発。
  7:13 新大阪「ひかり」発
  8:01 大垣発(普通)
  8:45 養老線大垣発
  9:10 養老線揖斐駅着 揖斐川町のなにかのお祭り行事なのか駅頭に盛装した紳士連が出そろい、観光バスまで集まっていた。ダムの起工式らしい。
  9;30 同バス発(名阪近鉄バス)
  10:06 東津汲着復帰
  10:30 同徒歩出発。朝から晴れた気持ちの良い日。谷沿いの舗装路を上がっていく。
  11:30 小津橋。

higasitukumi 東津汲の橋袂、焼きそばを食す

tukumi   津汲の渓谷

ozuhasi
小津橋から谷を眺める。ひなびた山あいの風景は、郷愁を呼び覚ます。歩くのをやめて、ぼおっと時を忘れて無心になりたくなる。物心がついた頃の昭和の時代が懐かしい。気をとりなおし橋を渡って、東の山へと入る。
  13:05 下辻越。山の中の十字路。このあたり、進む連れ逆に残り距離数の増えるなど道標コース案内の表示距離があいまいであった。林道に合流すると、方向は南寄りに転じていく。途中から舗装路になった。上神原という丁字路を左へ折れ今度は北寄りに転じる。ほどなく横蔵寺というりっぱなお寺に着いた。
  14:35 横蔵寺。平安・鎌倉時代からの最澄ゆかりの由緒ある寺、重厚な石垣に支えられた寺院は城郭のような風格さえうかがえる。本尊「薬師如来像」西美濃三十三霊場第一番所。美濃の正倉院或いは「ミイラのある寺」とも称される。ミイラとは1781年この地に生まれた妙心法師の遺体で1817年に即身成仏したと伝えられている。観光客の見ばの良い中年婦人からおいしい水が湧いていると上気した笑顔で教えられた。境内に泉の湧いている水場があった。荘厳なたたずまいときれいに手入れされた寺領は、しばしの憩いを得られる場所だった。門前にはそれなりのこぎれいな茶店や土産物屋も幾店か目に入る。  

tera  横蔵寺

 

sanmon 山門


15:00 いこいの森着。横蔵寺から脇の小径を20分ほど進んだところに案内標識があった。おだやかな上り下りの谷合いの道にある。休憩場所にこしらえられたのか小さなロッジ風の小屋があったが、雨に降られる懸念もなくそこから脇に延びる林道の片隅で野営をした。

 
 

yoake"   夜明けの寝床

       

4月30日
  4:45 起床。6:10 出発。
  6:50 しゃくなげ平休憩所着。6:56日の出
  10:10 妙法ヶ岳頂上(606.9m)途中のピークに熊谷直実のさみしい墓があったので、しばし平家物語に想いを馳せ、いにしえのさむらいの生きざまを偲ぶ。急峻な痩せ尾根のアップダウンをたどる。標高はそれほど高くないのに、険阻な深山の風格をを漂わせる峰々であった。  

myouhougatake   妙法ヶ岳頂上

   

kumagai     熊谷直実墓


11:25 谷汲山華厳寺。 kegonzi

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  大勢の人が参拝しに集まり、非常に賑わいのある栄えた大きな寺であった。西国三十三所第三十三札所。本尊は十一面観音。満願結願の寺として又桜・紅葉の名所として有名。798年創建、801年桓武天皇の勅願寺となる。山門の両脇にひとの背丈より大きな草鞋が吊るされていた。深山からぽっかり抜きんでたような遊山処である。老若男女の参詣客がおおぜいくりだしていた。
  門前の石畳の両脇に出店や土産物店が軒を並べる。下へ降りると料理屋や旅館もある。門前町をかぎ折れに曲がってまた北側の山へと上る。束の間、登りは急だった。尾根へ登りつめると楽な縦走路となった。尾根道をくだって谷へ下りると谷汲岐礼である。根尾川に行き当たり、進路は川に沿って南下する舗装路となった。車が時折走り抜けた。対岸を樽見鉄道の単車両電車が走っていく。
13:30頃 神海橋。川を渡り左岸にでる。民家にはさまれた田舎道を進む。目当ての酒屋は店を廃していた。二度三度呼びかけると中から初老の男が出てきた。廃業したので酒類は一切無いと申し訳なさそうに言い、この先の集落にも酒屋が在ったはずだから、尋ねてみたらどうかとおっしゃる。がっかりして、今夜の宿りを思案しながら歩む。

神海橋から根尾川を眺める


  三つの川が集まるところの湯ノ古公園に着く。四阿と水車小屋と手入れされた小規模な公園池があって、瀟洒な趣がある。案内書きのあって、「ハリヨ」という小さな珍しい淡水魚が四阿内の水槽に生育されているらしい。水槽を覗くが見えなかった。ひと気のない里の片田舎にこの瀟洒な雰囲気は違和感を呈するが、それだけに異次元的な美観が際立つ。野営地にしたかったが、時刻が早すぎるのと酒のないのとがあって断念した。あらためて訪れてみたい場所である。

yunoko 湯ノ古公園

teien  庭園

 

suisya  水車


  そこから田園地を歩んですぐ、幹線道路の交差点に直面した。途中、店らしき家が集落にあるにはあったが、声をかけても応えはなかった。交差点に看板屋があって、一人の青年が店先の空き地でなにやら大きなオブジェを制作しているので酒屋の在りかを尋ねてみた。やはり不明だと言う。そこへ通りかかった主婦が男とあいさつなどをしてすこし話しこんだが、自分の酒云々について関心を持ったらしく、なぜ酒が必要かと自分に問うので、夜山中で野宿するのにさびしいからだとこたえると、いたく同情するのだった。主婦は自転車で道を先の方へ去って行った。
 同じ道を自分も歩んでいくと道端に今の主婦が待っている。おばあさんが寝酒にとっている酒が少々あるので少ないけれど持っていきなさいと、ペットボトルに半分ほど入った酒を渡してくれた。いったんは辞退したが、いいのいいの、おばあさんそんなに飲まないからと勧めるのでありがたく頂戴した。この御恩は忘れません、こんどまた縁があったらお礼に上がりますと自分はつたない言いざまで感謝の辞を述べるが、もう少し気の利いたお礼のしようもなかったかと少々の想いをひきずった。
  16:00 伊洞峠。幹線道路と平行にはしる林道脇でテントを張った。樹林を透かして幹線道路を走る車の明かりが見えていた。婦人にいただいたペットボトルの日本酒をありがたく、味わう。多謝

 bakuei"          伊洞峠にて幕営

5月1日
  5:50 テント撤収・出発。うすぐもり
  6:45 下雛倉。道は車の通る舗装路をひたすら南下する。平野なので道は平坦であり、定規で引いたようなまっすぐな直線道路だった。
  10:05 岩崎。岐阜刑務所の物言わぬ大きな建物を目印に左折し、山裾を巻くようにして東進していき、いつしか小高い山に入ると椿洞からまた幅広の舗装路になり、しばらく街路を進んだところ岩崎のにぎやかな一画に着いた。ここのミニスーパーでビールを買い、サランラップの残り飯を辛子味噌と一緒に店先のベンチで食した。
道の交差する車道である。東海自然歩道の道標が見当たらないまま適当に進むと南北にはしる国道256に出た。さて旅を終えた今になっても自分の行動がどうしても腑に落ちないのであるが、ここで決定的な誤りを犯した。なにがして自分を狂わせたのか、にぎやかな国道を北へ向かって進んだのである。沿道にはさまざまな飲食店や車関係の販売店やガソリンスタンドやパチンコ店、大規模物販店などが連なり、その東海自然歩道とは場違いなにぎわいの異様さに、さすがに迷える自分にも知覚できる時がきた。よほど進んだ挙句である。真剣に地図をチェックする。いまさら引き返す気になれない、先の方に東向きの道路があるのでとりあえず三田洞へ行くことにした。そこから南へ下がれば東海自然歩道へ復帰できる。
  11:00 三田洞弘法院。ようやく三田洞に着く。にぎわっている寺院からは東海自然歩道標識もあり、なんとか東海自然歩道に還ることができた。暑い日なので、このまちがいのせいでたいそう汗をかく。
  12:50 白山展望地。最高点百々ヶ峰(どどがみね)417.9mへの山道となる。岐阜県のハイキングコースとしての案内が処々に表示されているので、どれが東海自然歩道の本道なのか迷う。グループや家族連れのハイカーが多く、にぎわいのある丘陵地だ。東海自然歩道は形をひそめ、地元の案内表示が優先していた。地図のとおりにはすっきり登れなくなり、複雑に曲がりくねって登った。上についても達成感はたいして湧かなかった。連休中なので展望の利く丘の上はハイカーの多くが集まり、昼食を摂るなどして憩っていた。  

        展望地から岐阜方面を望む


  14:20 長良川千鳥橋。
  丘の様な山から下ると、川に副う道路にでた。車が多く行きかっていた。長良川の畔である。   

tidoribasi 天覧記念碑から千鳥橋を観る

  長良川


この場所にたどり着いて、なにかしら達成感のような嬉しさがきざした。若い頃岐阜県鵜沼市に住んでいた自分には折節馴染んだ川である。橋へは下を交差する道から階段を上る。橋の上から長良川の流れを見ると、川面は蒼く生き物のようにうごめいていた。長い橋を渡り終え、左岸の高所を北へ進み、清水山の南裾を巻くようにして左回りに東へ進むといったん平地に出た。
 和光団地のとある民家の玄関口で話しこんでいる主婦たちに頼んで庭先の手洗いから水を補給させていただく。そこから山間にはいっていくとごみ焼却場の高い焼却塔を構えた大きな施設に行き当たる。大規模な焼却炉の稼働するうなりは、巨大な化け物じみて不気味だった。
  焼却場から上に広い公園があった。ここにテントを張ろうかと思案したが未だ公園に遊ぶ子供たちや家族連れの人影が多く、幕営するには落ち着かない気がして先へ進む。
 一人の労務者風の壮年男が横手の木立から現れる。話を交わす。意外と社交性のある人物で、つかの間和んだ。
 急な上がり坂にかかる。コンクリート舗装路を上がりつめるとそこが小高い丘のような権現山と北山に挟まれた老洞峠だった。
 16:45 老洞峠。道端を幕営地とする。すると、先ほどの男がまた横の小高い山から下りてくる。手になにやら山菜の束を持っている。蕨を採っていたという。また話しこんだ。話好きの人物だ。

  

 老洞峠にて

5月2日
  4:30 起床
  5:55 テント撤収・出発。峠から下ると駐車場と公衆トイレがあった。こちらの方が幕営に適していたようだ。
  6:30 三ツ池。さらに下っていくと須衛の里に出た。大きな道路との交差点を左に折れてさらに道路を進む。その静かな林道沿いの森に池が三つ連なっていた。三つの池だから三池だと、にべもない説明案内看板があった。朝起きぬけに済ませたはずなのにこのあたりでまた便意をもよおし、池畔の森の中で多量の用をたしてしまった。定年退職という年齢の節目における種ぐさの澱を、残りなく吐き出してしまったような爽快さがあった。
  7:30 寒洞池。御坊山の北を巻くようにして山道の坂をまだかまだかとあえぎながら登っていくと、うっそうと茂る樹々の間に、しずかな池があった。

kanboraike"  寒洞池


  寒洞池はちょっとした遊歩公園になっており、朝早いこの時分にも散歩する人がちらほら見られた。池の向こう対岸には四阿もたたずんでおり、風流人のあじわいというのか、妙な趣がある。池を半周して、先へ林道を進んでいくと各務原公園に入った。自然の地形を利用した広大な自然公園である。車で寄り付けるので、遠近に家族連れのキャンパーの姿や大型テントが散見できた。派手な色彩が目立つけばけばしい寺院の横の舗装路を下っていくと、やがてなつかしい日乃出不動の寺院・門前町に出た。最初にここに来たのは35年ほど前の夏にさかのぼる。不動で座禅行を終えた人が利用する、精進落としの鯉や鰻の料理屋が軒を並べている山あいの門前町である。朝早いこの時分、飲食店は一様に店を閉ざしている。沿道に佇立するお地蔵さんをながめて、しばし懐旧の情にひたる。             
8:45 日乃出不動。

hinodehudou 日乃出不動のお地蔵群    


  さらに道を下っていくと栄えているらしい広壮な大安寺に至る。そこを過ぎると平野の野道を歩み、鵜沼の里に入る。JR高山本線の踏切を渡ると、木曽川はもうすぐだ。
  10:00 木曽川。対岸の小高い丘の上になつかしい犬山城が遠望できる。右へ川沿いに折れて、ライン大橋を渡る。  

木曽川と犬山城 

rainoohasi" ライン大橋上にて

              2008.5月2日
  11:00 名鉄犬山駅。犬山城へ入るには有料なので割愛した。その昔此処に住まっていた自分には何度も訪れた城なので、いまさらという気がしたのである。天守が国宝指定された五城(姫路城、松本城、彦根城、松本城)のひとつ。別名「白帝城)と称されるが、これは李白の漢詩「早発白帝城」にちなんで荻生徂徠が命名したと謂われる。36年前に自分の下宿していた城下町の西古卷の町通りを訪ね歩く。すっかり家々の表札が変わっていた。昔の名残のすっかりつゆ消えたのには予想していたとはいえやはり一抹の寂寥がこみあげる。あのころ関わりあった人々の今の消息如何なることやらんと、ふと思いを馳せた。  

inuyamazyou    犬山城

  

nisikoken 西古券の町筋
  駅頭も様変わりしていた。昔出入りした食堂の在りし場所に、今では鰻屋となっている店に入る。あの頃この界隈に川魚専門の料理屋があったが、雰囲気が似ていたので気になった。鰻は美味だった。ビールも飲んだ。勘定を払う段になって、応対の女将に尋ねてみた。昔36年前の食堂のその後を、またその食堂主人夫婦のきれいなお嬢さんを。いろいろ説明をしていくと、それは私のことだと目の前の女将が卒然と言う、そのきれいな内気な娘は我なりと。自分にとってマドンナ的存在だった可憐な少女が、今大年増になって貫禄十分な体格でもって眼鏡越しに自分を見やっているのである。川魚専門料理屋のせがれを婿にもらったらしい。そういえば遠い昔のあの頃の一場面が昨日のことのように思い浮かぶ。友人と二人、二階座敷で料理を待っていると、店の主人夫婦らしい男女の交互に叱責する大声と娘の抗う必死の泣き声など争っているようなただごとでない気配が下階から聞こえた。まもなく料理を運んできた娘であったが、やはり泣いた後の哀し気な面差しがあった。それとなく声をかけてみたが、なんでもないとだけ応えてことさら気丈にふるまっていた。なにやら符牒が合いそうだったが、こじつけがましい思い過ごしであるかも知れない。いずれにしろ青春の1ページはお互いの変貌と共に否応もなく過ぎ去り、不可逆な歳月の無常と因果の残酷さを、ひしとつき突きつけられた一瞬であった。    

inuyamaeki"   名鉄犬山駅。この風景は昔のままだった。青春時代を過ごした町は、今も無常の名残を見せつける。離脱

 
2008年も、東海自然歩道を歩く機会は2回にとどまった。日数は7日であった。

  
         

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