東海自然歩道-酔いどれ天使の気まま旅

東海自然歩道-酔いどれ天使の気まま旅

2006年4月9日から11月25日まで:箕面から湯の山駅


2006年  4月9日
 何を思ったのか、日ごろ気にかかっていた「東海自然歩道」なるものへの憧憬をただ幻の憧憬に終わらせたくないという「恨み」がにわかに生じたようで、桜の散り初めるこの時候、気の赴くまま東海自然歩道なるものの実態に身を染めんと、早朝身支度をととのえ、とりあえずは異土である京の嵐山まで足跡を残すため、ひそかな決意と「やまのあなた」への幼き頃よりの精神の餓えとそしていささかの気負いをもって、出発したのであった。
6:15 粟生間谷第4住宅の自宅を出発。明け初めた光が、唯一自分の姿を見てくれた。
  7:25 勝尾寺
  勝尾寺裏の密林をかき分け、無法者の破獄の気分を模して急斜面の道なき藪を強引に登る。「ショーシャンクの空」の青年のように、気分は青春の真っただ中に居た。
  7:50 東海自然歩道尾根に合流。やっと人の歩く正当のコースになった。尾根北側一帯は広大な墓地―北摂霊園だった。外縁道に並行する山径を進むと西向きに折れ山道は谷へとまっすぐ下りて行った。沢を下り切ると林道があらわれた。泉の湧く水場がある。手を浸すだけに留めて先へ急いだ。コースの詳細が不明であり道案内がおぼつかないまま気がはやり、急ぎ足で進む。泉原(いずはら)の里へ、長い下り道を無我夢中に半ばは走る。気持ちはまるで小学生の遠足のように舞い上がっていた。ゴルフ場との府道出合いに下りたがすぐ府道から分かれ、左の林道へ入りゆるい坂を上がっていき、途中から右手の小さな沢流れを渡り逆方向へかぎ折れに南へと巻道をたどって行く。山里の田舎然とした樹林と田畑と流れ落ちる水に囲まれた気持ちの良い道だった。
 泉原村内から左へ折れて山辺をたどる道を行くのが正当な東海自然歩道であるが、折れ点の標識案内が見当たらず府道へ出てしまいそのまま府道をたどってしまった。大きな弧を描いて上へと延びる府道を眺めると遠い道のりに感じられた。老人ホームの白い大きな建物が道沿い丘上にあった。黙々と府道を登っていく。はるか先の上へと伸びる府道の見通せる地点に大きな東海自然歩道標識板がある。東海自然歩道の区間所要時間が標されてあったので、嵐山への残りを計ってみると夜に入るのが分かった。府道と別れ左は田畑右は山林の地道を行く。道の果ての府道と合流する手前、かぎ折れに右へ曲がるよう道標があるのだった。上音羽の屈曲店だった。忍頂寺スポーツ公園に着く。直交した府道交差点を渡り鳥居下の石段を登っていく。竜王山の登山口だった。最初は石段、次に石畳の道だったが、そこを登りつめるとアスファルト舗装の参道に合流した。上り勾配は徐々に急になり、息づかいが荒くなる。

 竜王山展望塔
 10:45 竜王山。急勾配の舗装路を登りつめると宝池寺と謂うひと気のない寂しいお寺に着いた。そこからは地道になり、あっけなく頂上広場のの展望塔下ににたどり着いた。脚を休めるのに手ごろな石があったのですこし休み、行動食を口に入れる。歩き疲れた足には格好の和み場所になった。
竜王山を下る道は茨木市の遊歩道「武士道」と東海自然歩道の二通りあるが、私は勝手が分からず「武士道」を下ってしまう。下ったところは車作の山間の里であり知らぬ間に東海自然歩道と合流していた。平安時代の王朝貴族の乗り物ー牛車の車輪を作っていた地だというので今にその名が残っていると、路傍の案内説明板に記されてある。分岐点を東海自然歩道の標をたよりに3回曲がる。民家を外れ舗装路を下ると府道に掛かる車作大橋にでた。橋を渡り車の行きかう府道を少し上がると、道路脇に自然歩道の案内があった。竜仙峡への登り口だった。このコースとは別の林道が、車作り大橋の袂から上る遠回りであるが歩きやすいルートとして設定されているようだったが、この時は不明だったので急な山道を選んでしまった。鬱蒼とした沢を登ると竜仙の滝に着く。規模は小さいが深山の趣があって、しばし憩う。沢道の荒れた急な山道は続く。少々きつい。焦っている身にとっては、なかなか上にたどり着けないもどかしさと苦労を感じた。沢の源頭から尾根へと上がる。峠付近の阿武山下を進み、樹林の中や山間の畑地横を下っていくと府道に直交し横切って村の細い道を下りると、高槻市の萩谷スポーツセンターに着いた。野球場やサッカー場などが広い敷地に配されちょっとした公園様に整備されているので、気持ちよく歩ける。道標に示されるまま板張りの桟道をたどっていくと、摂津峡への山道の下りになった。
 13:00〜13:45 摂津峡。摂津峡に下りてから道を間違え、あろうことか逆方向へ進み桜公園入口に出てしまった。土曜日のこととて桜見物の雑踏に呑まれてしまう。やむなく府道を通って上ノ口へ行く。
 14:00 上ノ口。ここから府道を北へ進むと、山懐の神峰山寺寺領に分け入る。いったん暗い谷へ下り、再び登りなおすと神峰山寺の山門前にでた。脇の木立の中に、茶店様の憩い処があったので、少し足を留めて休む。道案内にしたがい横手の舗装路を上っていく。上るにつれ勾配は急を増し、最後はコンクリート舗装になってより急になった。靴底のラバーが擦り減りそうだ。舗装路ではなく地道の山道があるはずだったがわからなかった。(後日知ったところによると、山道登山口辺りは第二名神高速道工事のため寄りつけなかったのだった)しかし、本山寺から先は山の尾根道となり、アップダウンを繰り返すなど変化がありよほど歩きやすくなる。

 
16:20 ポンポン山頂上(678m)         
丸い頂上の上で跳びはねるとポンポンと音が鳴ると言うのでこの名の由来があるが、真偽は確かめていない。


 

金蔵寺山門         


勝持寺山門         


勝持寺(花の寺)         


疲れているのが知覚できないほど、身体は昂奮していた。夕刻にかかっていたが今日中に嵐山へ行こうと、やみくもに京都側へ下る。山中に夕闇がしのびよってくる。山道を下り切ると里の林道に合流した。大原野の里だった。道標にしたがい林道のゆるい下りを北へと少し進み標から東向きに分かれ参道を上る。途中谷を埋める広い墓地の横を通る。一様に同じ形と大きさの墓石が連なるのが異様に見えたが、あるいはすべて無縁仏かもしれない。金蔵寺は薄闇に沈んでそのありかをぼかしていたのを、ああそうかと、日足に追われるようにして仁王門も横目に通り過ぎる。道は複雑に林道から一般車道・山道と様相を変え、屈曲高低を繰り返す。大原野神社入口を後目に暮れなずんだ観光駐車場なども過ぎる。西行ゆかりの大原野「花の寺」勝持寺にはいまだ山桜の幽遠な立ち姿と落花の弧愁を見せていたが、夕やみに包まれて人影もまばらだった。平地に下りてからも道が判然とせず、本来の東海自然歩道とはちがう暗い府道をたどり、沓掛からはとっぷり日の沈んだ中の車や街頭の光が氾濫する国道を歩いた。ヘッドランプを持参してこなかった失態をおおいに悔やむ。明るく分かりやすい路を選ぶしかなかった。喉の渇きと空腹に苛まれる。道沿いに「吉野家」があったので、ビールと牛丼を腹におさめた。ビールの活が身体にいきわたって元気がでたように思った。もとより東海自然歩道の忠実なトレースなど半端な生きざまの酔いどれ天使にはおぼつかないのだと開き直って、それでいてかすかな自嘲にも苛まれる。後日このコースは3回も歩きなおしたが。
 松尾大社の山門を過ぎ、ようやく嵐山に到達できることの実感を得る。
 20:50 阪急嵐山駅に到着。駅前のコンビニで缶ビールとコロッケを買い、電車に乗る前のひと時、自分への労をねぎらった。政の茶屋から嵐山まで56q、自分の場合粟生団地から勝尾寺を経由したので、よほど控えめに見ても、50q以上は踏破したのではなかろうか。14時間半を費やした。翌日は仕事のはずだった。離脱


2006年 4月25日復帰
  8:10 阪急嵐山駅を出発。晴れ渡った春の空、そういえば自分の誕生日だった。渡月橋を渡り辺りを探ってみるが嵐山公園へ行く道が分からず、天龍寺辺りの寺々を迷い歩く。30分ほど行ったり来たりして、河原沿いをたどることにようやく気付いた。実はこの時分は、未だ地図が不備であった。Yahooからダウンロードした地図を使用していたが、後に使用した国土地理院2万5千分の1に比べては細部の線描がおおまかだった。ただしかし、道沿いや周囲に在る何らかの施設・宿や店舗などはYhoo地図では連絡先電話番号まで記述してあり、国土地理院地図にそれら有益な情報をいちいち加筆したのだった。

matinami

 
 嵐山公園への整った遊歩道を上り、奥嵯峨の深い竹林に入った。保津川を開削した角倉了以屋敷跡や日本庭園で名を知られた往年の時代劇俳優大河内傳次郎別荘-大河内山荘と観るべきもの多い。トロッコ嵐山駅のこじんまりと素朴な駅舎を過ぎて嵯峨小倉山本町の庭園のような池辺をたどっていくと二尊院、去来縁の落柿舎や、奥嵯峨鳥居元の常寂光寺、平家物語由来の祇王寺、化野念仏寺などの由緒ある寺院が端然と連なり構える。風光・華やかさ等歩きやすい見飽きない石畳路であった。東海自然歩道中一二を争う味わいのある散策路である。京の歴史と伝統が、雅という間接照明を背景に、浮かび上がったような観光地であった。


rakusisya 落柿舎スケッチ  

 

genkan 落柿舎玄関  

   nisonin二尊院門

   化野念仏寺化野念仏寺入口

愛宕神社鳥居門近くの茅葺き建物  


 鳥居元の町並みを歩きとおすところの茅葺屋根の鮎料理で有名な平野屋やつたやを観るだけに留め(鮎もおいしそうだけど良い値段らしいので)、愛宕神社山門をくぐらず脇の樹林道を登りつめると六丁峠に上がり谷へ下りると渓流に掛かる落合橋、橋を渡って清いせせらぎの畔をたどっていく。気持ちの良い渓流道だ。いろいろなひとに会える。行きずりのあやめかかきつばた。
 10:15 清滝。

kiyotaki  清滝

 渓流から一旦上の舗装路へと上がり堤上を辿る。神護寺、高山寺などを横目に眺め、山城高尾を過ぎて清滝川に沿い周山街道を北上、北山町梅ヶ畑からかぎ状に右へ折れ谷沿いの里道を東方向へのんびり訪ね歩き鷹峯の分かりにくい町にでる。金閣寺(鹿苑寺)はここから近い。道は鴨川に沿って北へと左折、上賀茂神社を眺めひたすら府道を北へと歩むと、東海自然歩道の標に従い京都市北区に入った地点から東方向へと山道に踏み込む。

 高山寺入口

 13:30 夜泣峠。十字路なので峠の名がついているが標高はせいぜい400mほど、ちょっとした隆起に過ぎない。下ると叡山電鉄鞍馬線二ノ瀬駅近くの小さな踏み切りに出た。踏切を渡り、谷あいの舗装路を北へと上る。
 16:10 鞍馬駅到着。古びた木造の駅舎は、京というだけにあって、なにやら趣がある。夏の名物床席で名を知られた貴船もこのあたり。貴船神社は男女縁結びの神様である。
 今日の道筋は京都の右京区、北区、左京区と折れ曲がりの多い複雑な歩程であった。地図と東海自然歩道標との照合を繰り返し、おおきな迷いもなくて歩きとおせたことは幸いであったが、細かく土地を見物しながら歩けばもっと興趣のいろいろを発見できたと思われる。コースの踏破ばかりに執着し過ぎた恨みがある。時間に追われ、なにかに背を押されるように歩むこのスタイルはあらためねばならぬ。とは言い条、二回目の東海自然歩道歩きも、それとなし達成感はあった。離脱

2006年 4月30日復帰、 薄曇りだけど、空気に日差しがこもり心地は今一つだった。
  8:45鞍馬駅出発。前の鞍馬川にかかる木造の細い橋を渡り、丘のような薬王坂(やっこうざか)を越える。
  9:35 静原。池の竜が女に身をやつし、旅人となんとやら、そんな昔物語を読んだことがある。「今昔物語」だったか?
  山あいの里道をのんびり進んでいくと上りになり、なんの見栄えもない江文峠にいき着く。一人の地の男と出会う。ひとことふたこと言葉を交わす。猪がでるから気をつけろと彼は言った。峠を下り、盆地の里を北へと折れる。
  9:45大原三千院、そして寂光院。人の集まるところである。寂光院の名とは裏腹に、たいそうなにぎわいをみせ、ひとの熱気が渦巻く。寂光院といえば建礼門院、一門の滅び去った後の落魄は、時代の移りゆきに乾き、昇華して華やいだ観光地になった。
 東海自然歩道を進むには道を戻り、東へと比叡山へ分け入る。仰木峠(573m)へ上がれば沢通しに南下、あとは山腹を縫う山道となる。歴史の山は、案外と急登の道が続く深い山稜だった。たかが京の里山程度に過ぎないと侮っていたので、少々苦労を感じた。
 14:45 延暦寺ケーブル駅。境内の舗道に上がってから分かれ道が多くなり自然歩道道案内標識がなくなった。延暦寺境内は広くほうほうの態でケーブル駅にたどり着く。横山あたりでずいぶん方向に逡巡し、焦りもあって、大きくタイムロスを食う。
  18:40 三井寺。下山路を間違う。逆方向の坂本方面へ下りているのに気づき、お寺さん玄関前を掃く二人の若いお坊さんに道を尋ねたりして引き返し、あらためて大津の方へ下りる。町へ下りてからも標識を見失い、民家の「岩波」という表札に惑わされたりし、坂と屋敷に囲まれた八方ふさがった道にでくわし時ひとりの険しい風貌の中年男に出合い、私服警官の職質みたいな言葉つきを気にせず道案内を尋ねたりして、ようやく三井寺に着いた。予定の石山寺にはたどり着けなかった。歩行距離約40km 離脱

2006年 5月3日 晴れ
甲賀の里コース
     8:15 京阪石山駅復帰出発。三井寺から石山駅へは間に音羽山の登山があるなど相当数の歩程もあるが、町中の行路が億劫であるので割愛した。(後日、2回トレース)
 瀬田の洗堰を渡り、支流の大戸川に突き当たると橋を渡らず左へ右岸を進む。途中の小さな橋を渡って今度は左岸を東進する。集落の中をゆるく南寄りに湾曲する。支流の天神川沿いに舗装路をたどるのが本道であるが、川の際に人のやっと通れるぐらいの地道が続いているので利用する。やがて本道の舗装路に合流し、少々勾配のきつい舗装路を上った。辺りは松茸山らしくところどころに区画内山域への不法侵入を咎める表示看板があった。舗装路が尽きると尾根登りの山道になった。白い花崗岩の道であった。湖南アルプスの名は、この白い花崗岩から拠っているのだろう。大小の岩石がルートを形成しており、気持ちよく登れる。
  12:00 太神山不動寺(たいじんさんふどうじ)。多少の労力が必要とされる登りだった。山奥のさびしいお寺だった。ここからひと気のない山の曲がりくねった下り路になった。山中を東へと歩を進める。舗装路と山道が交互に続いだ。
  15:50 紫香楽宮司(しがらきぐうし)。途中の「三筋の滝」の名所で、東から来た大きなザックを担いだ若者と出会う。東京から東海自然歩道を歩いてきたという。険しい山道などは適当にショートカットするのが、彼の流儀だそうな。紫香楽宮司あたりの盆地に来て道に迷い、行戻りしてようやく信楽鉄道の踏切を渡るのだと分かり、先への手がかりを得た。(後日、このルートを再トレース)  

 sigaraki       紫香楽宮講堂跡 

 
        18:20 岩尾山池キャンプ場。三筋の滝で出会った若者からの情報どおり途中新しい道路の建設中のところを通るが、自然歩道の道はなくなっていた。適当に検討をつけて工事途中の道を進んだ。このキャンプ場池畔で野営。テントなし。石山のコンビニで買ったワイン「サンライズ」を飲んで、気分のよい夜となった。周りのキャンパーたちの明るい声が聞こえていた。

5月4日
  5:50 岩尾池を出発。気持ちの良い朝を迎えた。
  8:35 伊勢廻寺(いせばじ)。田植え準備中の農村地を蛙の鳴き声に迎えられ農夫と挨拶を交わし、すがすがしい気分で歩む。おおむね道は下り勾配の里道。東海自然歩道の中でも印象に残った気持ち良い道程。伊勢廻寺は小高いところに位置しているので見晴らしが佳く、辺りの田園風景を一望に見渡せる。こじんまりとしたお寺であるが、山間の鄙にあって素朴にたたずむ堂宇は瀟洒な趣があり、別荘殿の雰囲気を醸している。
伊勢廻寺:甲賀西国13番札所、本尊の木造十一面観音立像は国の重要文化財に指定。観光名所にもなっています。   

伊勢廻寺から甲賀平野を望む。  


  11:35 余野公園。途中道をまちがえ森の中を彷徨する。当方の見込み違いからショートカットするはずがたいそうなアルバイトとなった。かなりの時間を浪費した。暑かった。
  13:25 柘植駅到着。駅周りには飲食店などはなかった。発券窓口駅員の高圧的な(官尊民卑そのもの)物言いに不快を感じた。当方の身なりのせいか?離脱

2006年 5月21日 晴れ
山辺の道コース
  8:30 石山寺駅復帰出発。今回は「山辺の道コース」を行く。
  10:30 岩間寺。石山寺から南へと田園の舗装路を進むと山地に差し掛かり、急な舗装路を上る。結構斜度がある。遠くにライフル射撃の銃声が頻繁に聞こえる。クレー射撃の練習場があるらしい。上がるにつれ深山の趣が濃くなり、途中の無人社で休憩したりするなど、上りは長く続いた。
  西国三十三所第十二番。厄除け、ぼけ封じ観音、その他日本一の桂の大樹群で有名。結構流行っているお寺さんであるらしく、多くの参詣客が集まっていた。東海自然歩道は広大な境内を抜けるよう設定されている。ありがたいことに、東海自然歩道を行く旅人に限り本来は納めるべき参詣料も無料であった。境内を抜け急な下り坂をたどり里道にでると、あとは標にしたがい複雑に折れ曲がりながら進む。平出、稲出、西笠取、炭山と、山間の里村を、なんだか連れまわされるような感じでたどっていく。これといってメリハリが無いので、疲れる。すべて舗装路であり、里の生活臭がこもっている。鴨長明「方丈記」に出てくる笠取の山里はこのあたりだったかと思いをはせる。進むうち徐々に家並みが建て込みだすと道はさらにややこしくなり東海自然歩道もなにもあったものでなく、地図をたよりに宇治川へと歩をすすめると仏徳山への登りになった。
  14:45 仏徳山。頂上付近は公園になっていて、眼下に宇治川の流れを眺望できる風光ことのほかよろしい場所だった。人連れが多く憩っていた。平和な午後だった。
  15:15 宇治川に下る。川の急な奔流に圧倒される。白虹橋を渡り対岸へと出る。白山神社、くつわ池とたどるが、どこかで道をまちがえ、車の通る舗装路を歩んでしまう。行楽の車が走り、気ぜわしかった。山地を下りて開けたところが「郷之口」という国道との合流点だった。

 宇治川

 白山神社山門


 突き当たった国道307を西へと歩き、らしきと見当をつけた東への脇道路へ入る。本当は郷の口から国道を突っ切り、東へ1kmほど進んでから南へ折れるらしい。宇治田原の里、舗道の両脇に農家が続く。御栗栖神社という休憩できる村の鎮守もあった。二人の主婦が時間を気にせず飽きることなく話しこんでいて、その二人の姿を境内の石の上からもの憂げに眺める一匹の猫、それらの絵柄が印象に残った。
  18:45 地福谷。里道から北方向へ暗い谷道に分け入る。細い沢流れの際で野営。それまでの道はひとの気配がそこそこあり、落ち着いて夜を過ごすのがためらわれたので、暗く(実際、日暮れて闇がしのびよっていた)、車もめったに通らない谷に、野営地を求めたのだった。沢の流れに身体を浸け、汗を洗った。冷たかったが、体を拭くとさっぱりした。


5月22日
  5:00 出発。いつにおいても早朝の出立は気持ちが良い。空の青みに気が引き締まる。
  6:10 鷲峰山金胎寺(じゅうぶさんきんたいじ)。ここでも道を誤る。コースは金胎寺境内の参道を通るのであるが、金胎寺をろくに見学もせず山門への入り口前を素通りしたのが間違いであり、舗装路をそのまま進むも途中で気づき引き返した。20分余りロスをしたが、結局内境内には入らずやり過ごしてしまった。

 金胎寺山門


  7:30 原山バス停。山から盆地の里村に着いた。このあたり、東海自然歩道の標を探すのがひとつの勤めのようだった。それほど村の各辻に来るたび進路は折れた。府道に下り、原山バス停を過ぎ、ここから茶畑の中を進む。茶畑の農道は急傾斜なコンクリート舗装となっており、気分的にも歩きつらい。
  9:45 童仙房。山から下りると結界から脱け出た感じで里に出た。明るい、辺りの里風景が。童仙房という料理・宿泊ロッジでカップそばを買い求め食す。主人夫婦は愛想よく親切で、山から下りてきた云々の話をすると、どんぶりご飯と漬物をサービスしてくれる。量が多く、食べきるのに奮闘する。猪や雉料理を出す宿である。一度、宴会に利用したいと思ったが、いつになることやら?
  この地は、京都府の宇治茶で名の知れた和束町から南山城村への境にあたる。野殿の田舎道を歩む。山あいの舗装路であるが、車はほとんど通らなかった。めぼしい観光資源とてなくあたりまえの山村なので、今日日の人の集まるところへさらに人が集まるという図式とは縁遠いのだろうが、この静けさ・物言わぬ生活の筋骨さ・そして虚無、私には得難い旅の風物だと思うのだけれど。
  12:45 押原。平坦な地方道といったしずかな舗装路を歩んだ。この辺り、道のかしこにも車の影は見えず。
  13:15 月ヶ瀬駅。駅へ出る途中から自然歩道本来のちょっとした峠越えの自然路があったはずなのに道を見失い、車の通る舗装路を進む。国道163を伝って駅へたどり着いた。日差しが照り付けて季節外れに暑かった。離脱

2006年 6月4日
  5:10 自宅出発
  8:45 月ヶ瀬復帰 月ヶ瀬駅から山腹の車道を進む。高山ダムを過ぎしばらく行き、舗装路から下の川辺へ竹やぶの地道に下り、鳥の鳴きかう気持ちの良い竹林を進む。大河原から先は布目川、飛鳥路の能登川と川筋に沿い山里のなかなか趣のある散策コースである。布目川の「おう穴群」とは、川底の石が流れに転がり、川底の花こう岩に穴をえぐったもの。河原に下りると、大小の丸い穴がある。話の種にはなると思う。白貂の姿も木立の陰に見かけた。このあたりのコースは野趣豊かにして素朴で一昔前にタイムスリップしたような純自然の姿を呈している。東海自然歩道全行程の中でも印象に残る道筋のひとつになった。
  11:50 笠置着。JR線路脇の細い道をたどり木津川に掛かる橋を目標に歩いて行くと笠置の観光地に着いた。対岸へ橋を渡る。東海自然歩道は笠置山をめぐるようコースが設定されている。その昔、1331年後醍醐天皇が、鎌倉幕府への倒幕計画が発覚したというので三種の神器を奉じてしてこの地に挙兵・たてこもったという「元弘の乱」の舞台である。そして古くからの修験道の行場であったと謂う。後醍醐天皇行在所跡を観る。この仮都には女官も幾人かが天皇にかしづいていたのだろうか?ふと思いをはせた。笠置山周遊ハイキング道があり、懸崖仏を鑑賞できたり、雉料理などを出すちょとしたこていな料理旅館もありで、歴史に触れながらの酩酊散策も楽しい山かなと思う。
 笠置山を下りて南へ進むと柳生の里へ入る。まず目につくのが旧柳生藩家老屋敷、小高いところにあって石畳段の入り口坂と周囲を囲む石垣が立派です。町中では見られない重厚な建築たたずまいを今に見せています。観光の人たちが群れ集っているので、横目にみて通り過ぎます。次に足を留めたのは、「おふじの井戸」と謂われる簡単な小屋掛けのある古井戸です。柳生但馬守宗矩と村娘との間に交わされた問答の逸話を説明看板に読んで、昔人の人情の機微に触れた想いでした。
  柳生家菩提寺「芳徳寺」を横に眺め大柳生に至る。疱瘡地蔵と言う、変わった名のお地蔵さんも路傍にあった。この時の世相ブームなのだろうか、大勢の観光客とりわけ若い女性の姿が目立つ。道は複雑に折れ曲がる。ひとの家の庭先や軒下を通ったが、ちゃんとした東海自然歩道の標が案内しているのだ。
 夜支布(やぎゅう)山口神社を過ぎ、山里の歩きやすい道をたどっていくと舗装路に合流した。そこは忍辱山円成寺という国宝「大日如来像」を所蔵する大きな古刹だった。敷地はひろく庭園様に整備されていて、宗教にかかわりなく大勢のひと足を集めるそれなりの魅力がある。季節頃には松茸の販売店がでる。
  円成寺と別れ、舗装路から分岐して山道をたどっていく。大慈仙・勢多林という難しい名の山地に入る。変化が多くて、振り回されるような感じで歩いた。でも観るところ多くそれなりに楽しめるコースだ。
 16:45 峠の茶店。峠の茶店というのは峠に建つ一軒の藁葺き古民家で、大きな薬缶の番茶が自由に飲めて、疲れた足にはたいそうおいしかった。名物の草餅を食す。朴訥なおじさんがひとりで店をまもっていた。
 さらに進んでいくと地獄谷石窟仏、首切り地蔵、夕日観音に出会う。そのあたりから「滝坂道」別名柳生街道という深い樹林に囲まれた石畳の古道をたどっていく。江戸中期に整備された気持ちの良い道だった。この日の目的地白毫寺に近づいた。
 滝坂道を抜けると 住宅地にまぎれこむ。東海自然歩道の標が見当たらない。地図を頼りに百毫寺をめざす。
  17:40 白毫寺。鎌倉時代に再興された由緒ある寺。五色椿(奈良三名椿)が有名。本日は歩程41.9q、東海自然歩道のなかでも歴史に触れることのできる快適コースである。何度でも再訪したい。離脱

 

2006年 9月2日 晴れ
  6:10 北千里発
  8:10 白毫寺復帰。関西花の寺二十五霊場18番。真言律宗。重要文化財「木造阿弥陀如来坐像」等、他五色椿で高名。近鉄奈良駅からバスを利用して着いた。寺門前の横手から東海自然歩道に復帰。
  9:50 柳茶屋。こぎれいな料亭の様なたたずまいであった。奈良市内ではあるが平坦な田舎道を歩む。まるで月曜だとか金曜だとかの曜日とは無関係な、世相の日々の流れから取り残されたような風景だ。鹿野園、平尾池、白川溜池の大きなシャープ工場を遠目に眺め、名阪国道を渡ると、天理市に至る。道はこの先概ね平坦であり、のどかだった。

isonokami 石上神宮スケッチ   

   tori 石上神宮の鶏
  繁華な天理市の商店筋を出ると、田園の道になった。遠く木立の鬱蒼と茂る森がある。あのあたりだろう、石上神宮は。
  11:30 石上神宮(いそのかみじんぐう)。石上神宮は大きな由緒ある神社で、古くは日本最古の神社として武門の棟梁物部氏、崇神天皇、白河天皇と縁がある。境内はひろく森に包まれている。いろんな種類の鶏が飼われていてなんでも神社の神に崇められているらしい。

         
万葉集に縁の深いコースなので、道筋に歌碑がいくつかあった。いずれも万葉歌人柿本人麻呂作。

kahi1  
「衾道を引手の山に妹を置きて山路を行けば生けるともなし」   

kahi2  
 同じく


  「あしひきの山川の瀬の響るなべに夕月が嶽に雲立渡る」
竹ノ内環濠集落に行き当たる。歴史に触れる。古くは南北朝から戦国乱世の時代に、外敵の侵入を防ぐために設けられた濠であるという。この地は標高100mを越えるので、このような環濠は珍しいそうである。   

      

takenouti 竹ノ内環濠集落風景    

  

        萱生町、衾田陵と山辺ののどかな田舎道を歩んでいくと、長岳寺別名花の寺に着いた。ここは躑躅が有名である。拝観料を納めて境内に入る。下の写真は、他日咲き頃に訪れて撮ったもの。  

tutuzi   長岳寺山門と躑躅

 
 
      沿道の秋桜をちらほら眺めながら田園を南へ歩んでいくと、崇神天皇陵、景行天皇陵が小高い丘となって濠のむこうに見えた。
  萱原の田舎道に、地元産の野菜や特産品を売る茶店の様な田舎家があるのでのぞいてみたが、柿はまだ早かった。都会では手に入りにくい実山椒などが、格安に売られていた。
  14:15 桧原神社。少しの登り路を上がると台地上に鳥居と祠だけの史跡のような神社がある。大神神社の摂社である。横手に休み処の茶店があり、葛切りを注文する。黒蜜にきな粉の降りかかったそれは、暑気いまだ衰えない時候にあって、歩き疲れた身にはたいへん美味だった。神社を出はずれた道沿いに背の高いりっぱな無料休憩所の建物があり、自給機で無料のお茶を給している。悪天候の折にはたのもしい待避所になるし腰をおろしてゆったりくつろげる休み処として、ありがたい施設だった。
  15:20 町並みを進んでいき、大神神社(三輪明神)の大きな社に着いた。男女縁結びの神様だと謂う。三輪ソーメンと相まって、人気を博している。
  15:50 桜井駅。三輪からJRに乗り、桜井からは近鉄を利用した。この山辺の道は、ほとんど山登りのない東海自然歩道中、類の無いのどかなコースである。したがい、足弱の方でも無理をせず楽にコースをたどれる。また、四季折々の風物や味覚を楽しめる素朴な田舎の道筋であり、多少なりとも万葉の歌に触れた方なら、興尽きないその足跡をたどることができる。東海自然歩道のこの脇コースは、関西の自慢と言っても過言ではないと思う。離脱


2006年 10月7日(日)うす曇り
  5:40 箕面自宅を出発
  6:25 阪急北千里発車
  8:40 大神神社、復帰
  ここから東海自然歩道に合流し、歩く。初めのうちは土手沿いの野道であったが、ほとんどは車の通る舗装路を歩く。
  10:15 初瀬 長谷寺着。真言宗。4月〜5月の牡丹の花で有名。また寺院建物の「登り廊」といわれる傾斜のある長い廊下は有名。拝観料を惜しむわけでもないがのんびり見物する遊山の旅でもないので、門前土産物店のひしめく通りを足早に抜ける。
  寺の裏(北)へと舗装路の上がり坂を行くと、高い見上げるばかりの初瀬ダムに行き当たる。あの上まで上るのかと思うとうんざりする。まほろば湖というダム湖である。ダム堰堤の上を渡り、東へ歩を進める。遊歩道のような山道になった。
  12:30 鳥見山公園。野花の園といった感じの丘。休日なので、人々の姿がにぎわしい。秋の日の行楽風景であった。
  15:30 下山橋袂。この辺りでは道筋が覚束ないので田舎道を右顧左眄の態で彷徨った。
  16:30 室生口大野駅。玉立(とうだち)橋、山部赤人の墓を過ぎ、室生のダム湖を半周する分かりにくい道を進み、すこし疲れ気味にたどり着いた。全体に、この日の道筋は明るくない。離脱


2006年 10月13日(土)うす曇り
 5:30 自宅出発
  6:00 北千里発
  8:25 室生口大野駅、復帰。室生寺へはこの駅からバスがでている。ハイカー姿の人が多い。欧米系の外国人青年男女グループもいた。みんな、どこへ向かうのだろう。私の歩む道には誰も来なかった。
  10:20 室生寺。深い樹林の道を進んでいるうち門森峠への道を誤る。途中森の中で右折する処をまっすぐ進んでしまったのだった。土地の杣人に教えられて、道を修正した。30分のロス。女人高野と称される室生寺、寺のありがたみより名所観光地として存立しているような観がうかがえないでもない。この世を律するのは経済であり、そもそも宗教とは、人間の欲の根底を煮詰めて別のページに著した一面ではないかと、穿ってみてしまえるのだから、またこれも在りなのか。門前の蕎麦屋の派手な暖簾が目立った。
  12:10 南松の滝。舗装路の途中にあった。印象薄い。
  13:05 クマタワ峠。登り路の終点という感じの暗い峠である。ベンチが備えられている。
  13:40 浄済坊の滝。浄済坊渓谷のハイキング道は歩きやすく渓谷の景観は見ごたえがある。台風の災禍なのか、谷間に数え切れないほどの針葉樹の倒木ががでたらめに折り重ねっていた。兜岩を左に眺め、里へ下っていくと村の活発そうなおじさんの3人が、熊に出会わなかったかと、聞く。見かけなかったと自分は言う。近頃、熊が出るっていうぞ。と彼らは言ってなぜか笑った。川を見おろす地点に出た。下に吊り橋のような橋が見える。遠く、向かいの山肌を縫う自動車道がくっきり見えた。これから向かう道であった。本当に上るのかと自問してみるのだったが、惰性にまかせようと、身体が言う。
  15:45 曽爾高原。新岳見橋、太郎路を経て、山腹の自動車道を延々と上る。車がスピードを上げて上っていく。亀のようにとぼとぼ歩む自分が、特異に見えてくる。自動車道からようやく地道への分岐に着いたときは、わけもなくうれしくなった。曽爾高原の薄丘陵を上るが、おりしも薄と月の取り合わせが名物だというので、ハイカーたちの人出が多かった。重いザックを背負って、一列になった彼らの歩調に合わせて登るのは苦労だった。上に登り切ると枯あがった亀池と曽爾高原の全景が見渡せる。カメラマンが大勢、月の出を待ち構えていた。時間が逼迫しているのでゆっくり見物している余裕がなかった。急いで亀山峠を越える。
  7:30 三多気。中太郎生というところは道路の交差する里であり、酒屋があり宿もあるようであった。山への登りにかかる村はずれですっかり日が落ち、ヘッドランプを装着した。ランプの明かりがたよりなく心細い思いで山道へと分け入る。山中の蔵王堂というのはひと気のない暗闇にあって薄気味悪く、足早に過ぎる。途中から林道になったが、暗闇の山中ではやはり不気味であり、ひたすら坂道を上った。どうにも疲労が嵩じたので、脇の森中へ入り、平坦な場所らしきと見当をつけて野営した。酒と食事を済ませ、寝袋にくるまるとすぐ眠りに落ちた。


10月14日(日)空は晴れ上がっていた。
 一瞬の間に目が覚めると森の中が明るんでいた。眠っていた時間はどこへ行ったのだろう?野営した場所と地形をあらためて知って、こんな密生した藪のところだったかと、少々驚いた。
  6:10 出発
  7:10 水場。道はわかりやすく進みやすい山腹の巻道。少し道から下りたところに小さな湧き水があった。人知れず、か細く湧く泉の水は、清冽であった。吉野の奥千本に西行の起臥しした庵跡があり、そこから山伝いに下りると水たまりのような泉がある。「とくとくの泉」である。「とくとくと落つる岩間の苔清水 汲みほすほどもなき住居かな」という歌が思い浮かぶ。この水場のか細く湧き出る水を観ていると、西行の「とくとくと」いう表現の謂い得て妙なのが思い知らされる。
8:10 大タワ峠。ベンチ・テーブルがあった。ひと気はない。
  9:10 尼ヶ岳頂上(957m)。大洞山は巻道を半周する程度で済んだが、尼ヶ岳はまともに頂上を越えるルートである。きつかった。標高900mを越える山は伊賀富士という異名があるぐらい堂々した山容である。頂上は丸く広い。日曜日だというのに人影がなく弧愁の感にひたる。このとき風がきつく、ガスが吹き流れ、高山の趣をおのずと漂わせていた。東海自然歩道中、印象に残る山のひとつとなった。
  山道を下ると、ひと気のない谷間の林道になった。左手の沢に沿って、倉庫やなにかの施設の建物があらわれる。桜峠はどのあたりかと右手の山をうかがうが、それらしい谷は特定できなかった。
  10:30 高尾バス停。離脱。バスの便は少なく夕方まで空白なので、近鉄青山駅まで歩くことにした。
  13:35 近鉄青山駅。田舎の舗装路を延々と3時間ばかり歩いた。沿道にはこれといって観るものや商店もなく、ただひたすら歩くのみだった。東海自然歩道とは無関係の歩程である。


2006年 10月22日(日)くもり時々晴れ
 4:20 自宅を出発。始発バスは6時前でないと来ないので、北千里駅まで歩いた。
  5:00 北千里駅
  8:10 上高尾バス停復帰。青山駅からバスを利用した。朝はバスの運行便も多い。
  8:30 分岐点。前回の帰り道、コースを離脱した地点。
  8:55 桜峠。またもや道を誤る。調子に乗ってずんずん進んでいくと下りが長くつづくので懐疑が生じ、コンパスや地図の地形を確かめて気づいた。元の桜峠へ登り直し、薄暗い陰気な登り路へと修正する。
  9:50 メナード青山ゴルフ場分岐。よく整備されたゴルフ場エリアに入る。あたりは開け、青空から清々しい大気が降りてくる。ロッジ風の建物があちこちに建っていた。
  10:10 布引峠。見通し良く歩きやすい道なので快調に歩程は伸びる。
  13:25 国道165出合い。大原橋という地点は道路工事中なので、自然歩道の案内道標も掻き消え、行き先に迷う。東方向の幅広い林道を下ったが、実は間違いだった。相当下ってから気づいたが元の方へ登り返すのも因業である。地図を確かめ、この先に尾根道へ上がる脇道があるので、そこから自然歩道へ復帰しようとした。さて、急な登り坂の復帰路を登っていると熊に出くわした。当方は必死に登るのに没頭しており、初めは軽自動車にしか見えなかったがしかしこれほどの山中高みに自動車道など在るはずもなく、なんだか訝しかった。。はるか上方の黒い物体にさして強い関心も払わなかったのだったが、よほどに近づくと相手が動き出し、沢筋へと咆哮をあげながら逃げていった。喉元の白い帯にツキノワグマであることが知れた。脇道を上がりきると目論見通りに自然歩道へと復帰した。あとは歩きやすい山道が続き、林道へと道が広くなり、別荘地の中へ入ったが、また道をまちがえ、ずいぶん遠くの国道に出てしまった。
  14:00 西青山駅。国道を避けて脇の廃線跡を歩んでいくと乗馬場があった。馬の動きが珍しく、興にのるまましばらく眺めた。離脱
 電車の来るまでの間を、スケッチをして過ごす。

 eki 西青山駅スケッチ   

   
            14:40 西青山発、急行
  16:15 鶴橋駅。この三重県の自然歩道歩きでは近鉄が唯一の交通機関であり、必ずと言っていいほど、鶴橋駅が経由点になった。帰路は駅前のaaで餃子とビールを楽しむのが習慣になった。

2006年 10月28日(土)晴れ
  4:25 自宅出発
  5:05 北千里発 今朝も北千里駅まで歩いた。
  7:44 西青山駅復帰
  8:15 歩道橋
  麓の別荘地の中の、木製の階段を上っていく。規模の大きな別荘地だった。
  9:25 三角点展望台 途中、奥山愛宕神社の方へと行ってしまいまた戻る。こちらの方が道の整備が良く、勢いでまちがえてしまったようだ。この展望台はロッジになっていて、一般のハイカーが何人かいた。2週間前登ってきた尼ヶ岳が遠くの山並みにかすんで見える。ゆくてはるか遠くの尾根上には、塔が見える。風車のようだ。
  11:25 風車展望台。 近くに見る風力発電の塔はたいへんに大きくその迫力と風切りの不気味な音に威圧される。道はアップダウンの繰り返しが果てしなく続き、体力を損耗させる。
  13:25 新大仏寺に着く。 富永の盆地に入った。寺の裏側から山への登りになる。
  15:05 田代池 樹林帯の上りが続いた。山の上に池があった。おそらくは溜池なのだろう、にしても規模が大きかった。青少年活動センターの施設で水を補給する。ちらほら若者たちの姿が散見できる。
  16:00 霊山(765m)頂上。
  桟道で整備された登りやすい山道。この日の登りもようやく終わり、一息つく。
  17:20 JR柘植駅 山辺の道コースはこれで踏破した。9日間を費やした。しかし、この区間は東海自然歩道の中でも、一二を争うほど興趣に満つ素敵な行路であった。たとえれば、ひっそり生きる素朴なひとのやさしさの様なものを垣間見せる道程だった。奈良県と三重県ばんざい。離脱

   

2006年 11月4日(日)薄ぐもり。
  豊川住宅バス停 6:17発
  7:21新大阪発(近江塩津行新快速)
8:10 草津乗り換え
8:55 柘植着復帰
9:00 同徒歩出発
本日は日帰りのハイキングと洒落こみ、新大阪ではやや高級な弁当などを買い求めて歩いたのだったが、不動滝あたりは道が荒れており、ゾロ峠への急峻な登りもあったりして、そこそこ労を費やした。ひと気のないのどかな山道だった。結局牛谷川出合いで東海自然歩道離脱。道中、道を外れた木立の中で昼食を摂っていると、長い杖を突いた若者が足早に歩いて行った。酔狂かな。
  14:40 JR加太駅。東海自然歩道の全工程の中で、最も短い道程であった。時間があり余ったので、駅付近のお寺外観をスケッチした。離脱

 kabuto   加太駅裏のお寺

2006年 11月24日(金)曇り日
  5:46、豊川住宅バス停発
  8:40 加太駅復帰
  9:00 加太駅から牛谷川沿いに谷を上っていき、前回離脱点まで上り詰めて東海自然歩道へ合流。前回と違って上りとなると結構きつかった。
  10:00 関町沓掛南の国道Route1出合い
  11:40〜12:00 鈴鹿峠。西行の歌にも出てくる峠。視界が開ける。沓掛から坂下へ時代劇にでてきそうな街道筋を通り、ひとり興に入る。途中東京から旧東海道を西へ歩いて旅しているという青年と出会う。彼はデイパックのような荷を背負う軽装ななりである。泊りはビジネスホテルを利用するそうだ。足は達者であり、私をおいてずんずん先へと先行していった。片山神社から峠への登りが少々きつい。峠に名所の覗きの岩があるというのでそこへ行き、焼き鯖寿司弁当の昼食を摂った。青年は先へ進むと言って、土山の方へと去って行った。
 「鈴鹿山 浮世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらん」 西行  峠の上に立つと、この歌が実感される。それほどに、ここまでの登りの陽の差さない樹林帯に比べて、この峠の上に立つとにわかに視界が開けて気が踊る。西行も行く先を案じるというより、これまでの引きずってきた身にまつわる滓のようなものを霧散して気が清新したのではないかと、想像する。
  14:10 かもしか高原。薄日から差す熱病のような温気が暑く、高原への上りはきつかった。高原上には人影が無く、晩秋の淀んだ照りが満ちていた。
  15:20 石水渓 山女原(あけびはら)、安楽越えのひと気のないキャンプ場にテント泊。水場のカランからは勢いよく水がほとばしったので、ありがたかった。ひと気がなかったのでさびしい。

2006年 11月25日
  6:10 キャンプ地を出発
 田畑の道を進んでいると、朝も早いというのに農夫がひとり田を鍬起こしていたが、こちらが先に朝の挨拶をすると、手を休めて話しこんできた。曰く公務員の年金額が幾らか知っておられるか?700万だよ、700万。わたしら一所懸命米を作ったってそんなにならないんだ、世の中おかしいのだ。と力んで弁舌をなさるのだ。その田んぼでできた米は農協へ出荷なさるんですか?と問うと、うんにゃ、5・6俵ぐらい売ったって元がとれんのだがな、だからわがとこで食うのさ。補助金がでるのですね、と聞くと、まあな、とあとは言葉を濁すのだった。
  見通しの良い麓の林道を下っていくと広大な霊園が左手にひろがってくる。しかし、車も人影もなかった。無人の野を進む気分。
  9:10 桃林寺。なにかお祭りの様なにぎわいだった。
  9:30 椿大神神社。おおきな神社。なにか催し物か祭事があるらしく大勢の人々がくりだしていた。このあたりでは、おおむね舗装された里道を進む。
  11:10 もみじ谷
  12:00 雲母(きらら)高原
  終日曇り空のせいで景色は沈み冴えず。茶畑の急なコンクリート舗装の坂道が続きうんざりする。途中の桃林寺が、なにかの華やかな行事をしており野外売店の一つに弁当を売っていたので求め、このあたりの道端で食した。道中の中食はたいてい半端な菓子類や木の実で済ませていたが、このような弁当はありがたくおいしくいただいた。雲母休憩所を経て湯の山温泉バス停へ行く道がなにかの障害(土砂崩れ)で通行止めとなっており、自然歩道を離脱して林道を下り近鉄湯の山駅へ行った。電車に乗ると寒気がしたので、余分にフリースを着込む。気持ちまでナーバスになっていた。離脱
  東海自然歩道に足を踏み込んだこの2006年の旅路は、見るもの体験するものいろいろが新鮮だった。だから、旅のすべてが自分の少年の様な冒険心を喚起させた。総じて、楽しい印象が残った。単に余暇を埋める山歩きの範疇に留まらず、生活空間の重要な一部分を形成するほどにまで昇格していた。